今日 の うた コン。 うたコン

2020年6月8日~の1週間献立まとめ|楽天レシピ

今日 の うた コン

まずは主菜を決めましょう はじめにメインである主菜を考えると、献立が立てやすくなります。 主菜には肉や魚、卵や豆腐などのたんぱく質を多く含む食材を使いましょう! また、前日の献立を思い出してみてください。 「昨日は肉料理だから今日は魚を使おう」「和食の次の日は中華に」など食材やジャンル、調理法がかぶらないようにするのもポイントです。 味付けのバランスを考えて 同じような味つけのメニューばかりになってしまう、という悩みはよくあること。 甘い・辛い・しょっぱい・酸っぱい・濃い・薄い・スパイシーなど・・・これらを基準として、主菜と副菜は違う味を組み合わせましょう。 「主菜は醤油と砂糖を使った甘辛い照り焼きだから、副菜はお酢を使ってさっぱりとした酢の物に。 」 このように調味料で味付けを考えてみるのも良いですね。 調理法は重ならないように 主菜と副菜では、調理法が重ならないようにすると良いでしょう。 「炒め物と和え物」「煮込み料理とサラダ」「揚げ物と煮物」など。 旬の食材を取り入れましょう 旬の食材は食卓に季節感を添え、美味しいだけでなく、お手頃な価格で手に入るため節約にもつながりますね。 さらには栄養価も豊富となり、特に野菜や果物はビタミン・ミネラルが豊富に含まれます。 ぜひ積極的に献立に取り入れていきましょう。 もしレシピに困ったら、汁物の具に入れてみるのも簡単でおすすめです。 バックナンバー 過去3か月の献立まとめ.

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こんちわコンちゃんお昼ですょ!

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「万有引力とは/ひき合う孤独の力である/宇宙はひずんでいる/それ故みんなはもとめ合う」 『二十億光年の孤独』より 現代詩にほとんど触れたことのない人でも、きっとこのフレーズには聞き覚えがあることでしょう。 谷川俊太郎作 『二十億光年の孤独』の一節です。 谷川俊太郎の作品には、学生時代、国語の教科書や合唱コンクールの課題曲として出合ったという記憶のある方も多いのではないでしょうか。 1952年に『二十億光年の孤独』で鮮烈なデビューを果たした谷川は、85歳のいまもエッセイや絵本の執筆、翻訳といった多彩な活動を行いながら、精力的に詩を作り続けています。 彼の詩に対してもしも、難解、暗い、わからない……なんてイメージを思っているとしたら、それは大間違い。 谷川俊太郎は、 言葉遊びのような詩から ほのぼのとした詩、時には 怖い詩まで、カメレオンのようにいくつもの作風を使い分ける異色の詩人なのです。 ( 合わせて読みたい: ) 1. 2007年に詩集『私』の中の1編として発表されたこの詩からは、谷川俊太郎の持ち味である控えめなユーモアが感じられます。 「言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから/どちらかと言うと無言を好みます」という1行には、思わずクスッと笑ってしまう読者も多いのではないでしょうか。 飄々と進む『自己紹介』は、 「私の書く言葉には値段がつくことがあります」というハッとするような言葉で終わります。 彼は自分のホームページ上の文章でかつて、詩の値段についてこんな風に語ったこともあります。 詩は金融市場とは無縁ですが、詩をお金の力が届かない聖域に祭り上げるのも、誤魔化しのように思えます。 もう死んでしまった「俺」が自分の葬式を眺めながら語るという、奇妙な1編です。 知人が白いベンツでやってくる、近所の子どもが自分のパソコンをいじっている……といった残酷なまでに現実的なシーンを、語り手である「俺」はさして気にする様子もなく見つめています。 最後の連の、 「俺はおとつい死んだから/もう今日に何の意味もない/おかげで意味じゃないものがよく分る」 という3行からは、もうこの世に未練のない死者の視点だからこその空虚さと、強い説得力が感じられます。 谷川俊太郎は詩の中で触れられている「意味」というものについて、2005年のインタビューの中で、哲学者・鶴見俊輔の言葉を借りながらこう語っています。 無意味なことも、意味あることと同じように大事だって思えると、僕はいいと思う。 (哲学者の)鶴見俊輔さんが、nonsenseは世界の肌触りだって言うんです。 人間は世界の意味を一所懸命つけようとしてるけど、意味だけでは追求しきれないものが世界であって、それを肌触りって言ってるんだと思うんだけど。 『baby mammoth』2号より 『ふくらはぎ』の中で「俺」が語る「意味じゃないもの」とは、まさにこの「世界の肌触り」のようなものなのでしょう。 生への執着を一切感じさせない「俺」が、唯一の未練のように 「もっとしつこく触っておけばよかったなあ/あのひとのふくらはぎに」という本能的な願いをポロリとこぼすのは、実はとても正しく、馬鹿にできないことのようにも思えてきます。 「何ももたずに私はあなたとぼんやりしにいく」(『川』)、「だが何にもまして幸せなのは/かたわらにひとりのひとがいて/いつでも好きなときにその手に触れることができるということ」(『足し算と引き算』)……など、谷川俊太郎の詩には、好きな人とただ一緒にいることが至上の幸せである、という素朴な感覚が色濃く表れています。 最後の 「ここがどこかになっていく」というフレーズには、共感を覚える方も多いでしょう。 恋人や親しい友人と一緒に読んで、しみじみと味わいたい詩です。 「ひもにむかってわごむはさけぶ/おまえはもうじだいおくれだ/せろてーぷはだまってきいている/それぞれにやくにたてばそれでいい/それがせろてーぷのたちば」 『ひも また』より 他の近代的な道具に「じだいおくれだ」と馬鹿にされる「ひも」。 ところが、 「せんそうがはじまると/ひももわごむもせろてーぷも/てきみかたのくべつなく/にんげんのためにはたらいた/そのささやかなはたらきが/へいわをもたらすことにはならなかったが」 『ひも また』より 他の道具に混じって唐突に「せんそう」に駆り出され、「にんげんのために」働かされるひもたち。 『ひも』シリーズは、そんな結末で唐突に終わります。 ラブレターをくくらされるのと同じ「ひも」が戦争の道具にも用いられる、という描写からは、人間の営みの多様さだけでなく、その身勝手さも感じずにはいられません。 谷川俊太郎は、押しつけがましくないやさしい言葉で、人間のエゴイズムをこんな風にして説くのです。 「ひも」は果たして、生まれ変わったら「へび」になれるのでしょうか。 「ひも、よく頑張ったね」と声をかけてあげたくなるような、いじらしく切ない作品です。 丘、空、花といった大自然に対し、見境なく欲情して「やれたらやりてえんだよ」などという「おれ」は、一見、ただふざけているだけのようにも思えます。 谷川俊太郎は、特に若い頃、『二十億光年の孤独』や『春』といった作品に代表されるような、宇宙(コスモス)や自然をテーマにした詩を多く作りました。 彼はかつて、哲学者である父・谷川徹三との対談で、自分の中の「コスモス」という感覚についてこう語っています。 コスモスというふうなものを感じ取れたのは、青年のころ、この北軽井沢の中にいたからだと思うのですけれども、十代の終りから二十代の初めにかけて、自分が自然というものと一体になっちゃっているような状態、一体になっている状態がそのまま生きるということで、そこで自分がほんとうに幸せで完全だったような状態があったんですよ。 『対談』より まさに、彼の語る「自然というものと一体になっちゃっているような状態」を描いたのが、この『なんでもおまんこ』なのでしょう。 私たちはこの詩に向き合うとき、生と死は密接不可分であるという事実について思いを馳せずにはいられません。 小学校の国語の授業で読んだ、という方も少なくないかもしれません。 この詩はただ眺めるだけでなく、まず音読をしてみてほしい詩です。 前半の3行(「かっぱかっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた」)と後半の3行(「かっぱなっぱかった/かっぱなっぱいっぱかった/かってきってくった」)の音数が揃っており、自然とリズミカルに読み上げられることが分かると思います。 それはぼくはよくないと思うんですよ。 (中略) 基本的な日本語を美しく発音してね、その言葉に内在しているリズムみたいなものをちゃんと声に出せる訓練をしてるかっていうと、そういうものはすこしもないわけでしょう。 『FORK REPORT』「歌にいたる詩」より と語っています。 これらの詩について、後に彼は 「これは普通の詩よりはるかに書くのが難しいわけです。 ひとつ書くのに一ヶ月かかるのはざらなわけですよ。 」と解説しています。 「きみ」を女性と捉え、幼い男の子の切ない恋心を歌った詩と読むこともできます。 ……しかし谷川は自ら、この『きみ』という詩について、 オレはこれが出たときに、小学生のゲイの詩があるんだっていばったんですけどね。 なんかみんなピンとこなかったみたいなんだけど、これは明かに男の子同士の愛情の話なんですよ。 『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』より と語っています(谷川は同著の中で、かつて自分も中学生のときに同性愛的な傾向があった、とも言っています)。 「ねむってるのではなくてしんでるのだったら/どんなにうれしいだろう」という1行からは、決して自分だけのものにはならない「きみ」への、屈折した愛情が伝わってきます。 同性愛に限らず、叶わない恋をしたことのあるすべての人にとって『きみ』は、突き刺さるような1編なのではないでしょうか。 おわりに 谷川俊太郎は、自分のことを「デタッチメント」の人間だとたびたび評します。 「他人とは浅い付き合いだから、相手を肯定できるんです」(『考える人』2016年夏号より)という言葉のとおり、彼の詩にはあまり他人への執着や、ベタベタとした感傷は感じられません。 これまでに、子ども向けの詩集から大人のための愛の詩集まで、数多くの作品を発表してきた谷川俊太郎。 読みやすく、高尚すぎない彼の詩は、日常生活のどんなシーンにも馴染みます。 ちょっと疲れたときにはひとりで、あるいは大切な人と、詩集のページをめくってみてはいかがでしょうか。

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「万有引力とは/ひき合う孤独の力である/宇宙はひずんでいる/それ故みんなはもとめ合う」 『二十億光年の孤独』より 現代詩にほとんど触れたことのない人でも、きっとこのフレーズには聞き覚えがあることでしょう。 谷川俊太郎作 『二十億光年の孤独』の一節です。 谷川俊太郎の作品には、学生時代、国語の教科書や合唱コンクールの課題曲として出合ったという記憶のある方も多いのではないでしょうか。 1952年に『二十億光年の孤独』で鮮烈なデビューを果たした谷川は、85歳のいまもエッセイや絵本の執筆、翻訳といった多彩な活動を行いながら、精力的に詩を作り続けています。 彼の詩に対してもしも、難解、暗い、わからない……なんてイメージを思っているとしたら、それは大間違い。 谷川俊太郎は、 言葉遊びのような詩から ほのぼのとした詩、時には 怖い詩まで、カメレオンのようにいくつもの作風を使い分ける異色の詩人なのです。 ( 合わせて読みたい: ) 1. 2007年に詩集『私』の中の1編として発表されたこの詩からは、谷川俊太郎の持ち味である控えめなユーモアが感じられます。 「言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから/どちらかと言うと無言を好みます」という1行には、思わずクスッと笑ってしまう読者も多いのではないでしょうか。 飄々と進む『自己紹介』は、 「私の書く言葉には値段がつくことがあります」というハッとするような言葉で終わります。 彼は自分のホームページ上の文章でかつて、詩の値段についてこんな風に語ったこともあります。 詩は金融市場とは無縁ですが、詩をお金の力が届かない聖域に祭り上げるのも、誤魔化しのように思えます。 もう死んでしまった「俺」が自分の葬式を眺めながら語るという、奇妙な1編です。 知人が白いベンツでやってくる、近所の子どもが自分のパソコンをいじっている……といった残酷なまでに現実的なシーンを、語り手である「俺」はさして気にする様子もなく見つめています。 最後の連の、 「俺はおとつい死んだから/もう今日に何の意味もない/おかげで意味じゃないものがよく分る」 という3行からは、もうこの世に未練のない死者の視点だからこその空虚さと、強い説得力が感じられます。 谷川俊太郎は詩の中で触れられている「意味」というものについて、2005年のインタビューの中で、哲学者・鶴見俊輔の言葉を借りながらこう語っています。 無意味なことも、意味あることと同じように大事だって思えると、僕はいいと思う。 (哲学者の)鶴見俊輔さんが、nonsenseは世界の肌触りだって言うんです。 人間は世界の意味を一所懸命つけようとしてるけど、意味だけでは追求しきれないものが世界であって、それを肌触りって言ってるんだと思うんだけど。 『baby mammoth』2号より 『ふくらはぎ』の中で「俺」が語る「意味じゃないもの」とは、まさにこの「世界の肌触り」のようなものなのでしょう。 生への執着を一切感じさせない「俺」が、唯一の未練のように 「もっとしつこく触っておけばよかったなあ/あのひとのふくらはぎに」という本能的な願いをポロリとこぼすのは、実はとても正しく、馬鹿にできないことのようにも思えてきます。 「何ももたずに私はあなたとぼんやりしにいく」(『川』)、「だが何にもまして幸せなのは/かたわらにひとりのひとがいて/いつでも好きなときにその手に触れることができるということ」(『足し算と引き算』)……など、谷川俊太郎の詩には、好きな人とただ一緒にいることが至上の幸せである、という素朴な感覚が色濃く表れています。 最後の 「ここがどこかになっていく」というフレーズには、共感を覚える方も多いでしょう。 恋人や親しい友人と一緒に読んで、しみじみと味わいたい詩です。 「ひもにむかってわごむはさけぶ/おまえはもうじだいおくれだ/せろてーぷはだまってきいている/それぞれにやくにたてばそれでいい/それがせろてーぷのたちば」 『ひも また』より 他の近代的な道具に「じだいおくれだ」と馬鹿にされる「ひも」。 ところが、 「せんそうがはじまると/ひももわごむもせろてーぷも/てきみかたのくべつなく/にんげんのためにはたらいた/そのささやかなはたらきが/へいわをもたらすことにはならなかったが」 『ひも また』より 他の道具に混じって唐突に「せんそう」に駆り出され、「にんげんのために」働かされるひもたち。 『ひも』シリーズは、そんな結末で唐突に終わります。 ラブレターをくくらされるのと同じ「ひも」が戦争の道具にも用いられる、という描写からは、人間の営みの多様さだけでなく、その身勝手さも感じずにはいられません。 谷川俊太郎は、押しつけがましくないやさしい言葉で、人間のエゴイズムをこんな風にして説くのです。 「ひも」は果たして、生まれ変わったら「へび」になれるのでしょうか。 「ひも、よく頑張ったね」と声をかけてあげたくなるような、いじらしく切ない作品です。 丘、空、花といった大自然に対し、見境なく欲情して「やれたらやりてえんだよ」などという「おれ」は、一見、ただふざけているだけのようにも思えます。 谷川俊太郎は、特に若い頃、『二十億光年の孤独』や『春』といった作品に代表されるような、宇宙(コスモス)や自然をテーマにした詩を多く作りました。 彼はかつて、哲学者である父・谷川徹三との対談で、自分の中の「コスモス」という感覚についてこう語っています。 コスモスというふうなものを感じ取れたのは、青年のころ、この北軽井沢の中にいたからだと思うのですけれども、十代の終りから二十代の初めにかけて、自分が自然というものと一体になっちゃっているような状態、一体になっている状態がそのまま生きるということで、そこで自分がほんとうに幸せで完全だったような状態があったんですよ。 『対談』より まさに、彼の語る「自然というものと一体になっちゃっているような状態」を描いたのが、この『なんでもおまんこ』なのでしょう。 私たちはこの詩に向き合うとき、生と死は密接不可分であるという事実について思いを馳せずにはいられません。 小学校の国語の授業で読んだ、という方も少なくないかもしれません。 この詩はただ眺めるだけでなく、まず音読をしてみてほしい詩です。 前半の3行(「かっぱかっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた」)と後半の3行(「かっぱなっぱかった/かっぱなっぱいっぱかった/かってきってくった」)の音数が揃っており、自然とリズミカルに読み上げられることが分かると思います。 それはぼくはよくないと思うんですよ。 (中略) 基本的な日本語を美しく発音してね、その言葉に内在しているリズムみたいなものをちゃんと声に出せる訓練をしてるかっていうと、そういうものはすこしもないわけでしょう。 『FORK REPORT』「歌にいたる詩」より と語っています。 これらの詩について、後に彼は 「これは普通の詩よりはるかに書くのが難しいわけです。 ひとつ書くのに一ヶ月かかるのはざらなわけですよ。 」と解説しています。 「きみ」を女性と捉え、幼い男の子の切ない恋心を歌った詩と読むこともできます。 ……しかし谷川は自ら、この『きみ』という詩について、 オレはこれが出たときに、小学生のゲイの詩があるんだっていばったんですけどね。 なんかみんなピンとこなかったみたいなんだけど、これは明かに男の子同士の愛情の話なんですよ。 『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』より と語っています(谷川は同著の中で、かつて自分も中学生のときに同性愛的な傾向があった、とも言っています)。 「ねむってるのではなくてしんでるのだったら/どんなにうれしいだろう」という1行からは、決して自分だけのものにはならない「きみ」への、屈折した愛情が伝わってきます。 同性愛に限らず、叶わない恋をしたことのあるすべての人にとって『きみ』は、突き刺さるような1編なのではないでしょうか。 おわりに 谷川俊太郎は、自分のことを「デタッチメント」の人間だとたびたび評します。 「他人とは浅い付き合いだから、相手を肯定できるんです」(『考える人』2016年夏号より)という言葉のとおり、彼の詩にはあまり他人への執着や、ベタベタとした感傷は感じられません。 これまでに、子ども向けの詩集から大人のための愛の詩集まで、数多くの作品を発表してきた谷川俊太郎。 読みやすく、高尚すぎない彼の詩は、日常生活のどんなシーンにも馴染みます。 ちょっと疲れたときにはひとりで、あるいは大切な人と、詩集のページをめくってみてはいかがでしょうか。

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