ゴッホ アルル の 寝室。 ファンゴッホの寝室とは

オルセー美術館 Musée d'Orsay ゴッホ アルルのゴッホの寝室 アルルの女

ゴッホ アルル の 寝室

ファンゴッホの寝室(第3バージョン)、1889年、57. 同名の作品が3点あることが認められている。 「 ゴッホの寝室」、「 アルルの寝室」「 ファンゴッホの部屋」、「 アルルの部屋」と表記されることもある。 ・でゴッホが暮らした家の2階の部屋を描いたもの。 家は現存しないが、ゴッホの作品にとして残されている。 絵の左側の扉はゴーギャンの部屋につながっていたとされる。 3点のうち最初のものは、がアルルに来る直前のに描かれたもの。 次のバージョンは、ほぼ同サイズで9月に最初のものを複製して描かれている。 最後のバージョンは1889年9月にゴッホの母のためにサイズを縮小して複製して描かれたものである。 後にが購入しコレクション(いわゆる)に加えられていたが、第二次世界大戦当時はフランスに残され、による戦後賠償の一環としてにフランスの国有となり、現在はにある。 1921年頃、松方がパリに滞在し絵を購入していた際にはのが同行していた。 この作品が、の『アルジェリア風のパリの女たち』と共にで売りに出されていたため、矢代は「希代の傑作」であるとして松方に購入を勧めたが、松方は一度はこれを断り、矢代は落胆したという。 しかし、その後、矢代が知らない間に松方はこの作品を購入していたことになる。 脚注 [ ] [].

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ゴッホ「アルルの寝室」のベッド、オランダの民家に現存? 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

ゴッホ アルル の 寝室

美術史家が30日、現存の可能性について語った。 英国の美術史家で、ゴッホに詳しいマーティン・ベイリー()氏がオランダ公共放送NOSの取材に語ったところによると、南仏アルル滞在時に使われたこのベッドは、第2次世界大戦()後、オランダ・ボクスメール()の住民の手に渡った可能性があるという。 ベイリー氏の主張の根拠となっているのは、ゴッホのおいのビンセント・ウィレム()が1937年に書いた手紙だ。 ベイリー氏が発見したこの手紙には、1890年に自殺したとされる伯父のベッドをまだ所有していると記されていた。 そこで、ビンセント・ウィレムの息子であるヨハン・ファン・ゴッホ()氏(94)に連絡を取ったところ、同氏がこのベッドを覚えていることが判明した。 ヨハン氏によると、ベッドは1945年まで、オランダ・ラーレン()の父親の家にあったが、その後に戦時中に財産を失った人への支援物資として南方約120キロのボクスメールに送られたのだという。 ベイリー氏はその後、ベッドをラーレンからボクスメールまで運んだとされるトラックの写真も入手した。 「もちろん、気になるのは『今どこにあるのか?』ということだ」と述べるベイリー氏。 そして、すでに捨てられてしまった可能性もあることを指摘した。 ゴッホの「アルルの寝室」は、同タイトルの作品が3点ある。 1888年の作品は、アムステルダム()にあるゴッホ美術館()」に、1889年に描かれた他の2作品は、米国のシカゴ美術館()と仏パリ()のオルセー美術館()にそれぞれ収蔵されている。 c AFP.

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フィンセント・ファン・ゴッホ

ゴッホ アルル の 寝室

今回は、ゴッホの「アルルの寝室」です。 パリのオルセー美術館にある作品ですが、この作品以外に同テーマ、同構図の作品が二つあります。 ゴッホは、どのような想いを込めて、これらの作品を描いたのでしょうか。 童話の挿絵のような、温かみのある絵です。 ゴッホ自身の寝室を描いたようですが、ベッド以外に椅子や、洗面台、タオル、衣服類。 壁には、鏡に、いくつかの絵とデッサンがかかっています。 寝室にある、ありったけの物が、それぞれの存在を主張するかのように、狭い空間いっぱいに、愛情をもって描かれているように感じられます。 パリでの生活に見切りをつけたゴッホは、1888年の2月に憧れの南仏アルルに移り住み、画家仲間との共同生活を試みます。 ゴッホは、後から来るゴーギャンを待ちながら、アルルの町や身近なものを題材にして絵画制作を行っていました。 そのひとつが、「アルルの寝室」です。 このつましい寝室を、理想の空間、憧れの小宇宙として描いたのでしょう。 画商であり、この南仏生活をサポートしてくれた弟のテオへの手紙で、ゴッホは、この寝室の絵について、色彩への傾倒を語っています。 もともと、日本の美術、とりわけ浮世絵からの刺激が、明るい太陽の南仏生活を促したことからも、ゴッホの関心は、それぞれの物の色彩を、明るく単純に、陰影をなくして、構成することに集中していたようです。 画面全体の温かさに加え、描かれたそれぞれの構成物が、生き生きと迫ってくるような印象を受けます。 さて、このオルセー美術館の作品は、実は同テーマ作品の3枚目になります。 最初の作品は、アムステルダムのゴッホ美術館にあります。 待ち焦がれたゴーギャンも、このころにアルルに到着し、ゴッホと共同生活を始めています。 しかし2ヶ月後には、ゴッホがゴーギャンを襲うという事件が起こります。 家に帰ったゴッホは、自分の左耳を切り落とし、それを娼婦に送りつけて、警察沙汰になり、精神病院に収監されるという、新聞にも報道される大事件になります。 二人の論争がきっかけですが、精神的な発作は、あのアプサントというリキュールの飲み過ぎからきたのでは、という説もあります。 翌1889年の3月に、アルルに制作活動のために戻りましたが、付近の住民の反対にあい、5月には、自らアルル近くのサン・レミの精神病院に入院し、療養生活を送ることになります。 その療養生活中の10月に、現在シカゴ美術館にある2枚目の作品が描かれます。 オリジナルに比べて、強い線が目立つのと、床の表現がガラリと変わっているのが判ります。 アルルの夢が破れたという心理的な落胆が表現に影響しているのか、完璧をめざした創作上の追究からきているのか分かりませんが、全体に厳しい、硬い雰囲気になったような感じがします。 さて、3枚目のオルセー美術館の「アルルの寝室」は、オランダに住む母親や妹にあてて描かれたものといわれています。 シカゴ美術館のものと同じ時期、1889年10月に制作されているそうです。 身内に向けて描いたせいか、全体に優しく、温かく感じられます。 絵のサイズも小さくなっています。 3cm、そして第3のオルセー美術館のは57. 3作品の描かれた状況から、ゴッホのそれぞれの作品への想いがうかがわれます。 最初の作品では、アルルでの理想的な創作拠点を得て、ゴーギャンという敬愛する同志を待ちながら、新しい絵画理論の実験に夢を膨らませているようすが見えます。 2番目は、ゴーギャンと別れ、アルルにも拒絶されるという失意の中、自らの精神の病に不安を感じつつも、創作に意欲的に取り組んでいるゴッホの気概を感じます。 3番目の今回の作品では、心なしかリラックスしているゴッホの絵筆の運びが見えるようです。 皆さんはどのように思われますか。 ところで、オルセー美術館の「アルルの寝室」は、日本と深い関係があります。 この作品は、国立西洋美術館の設立のもとになった、有名な松方コレクションのひとつだったのですが、現在はオルセー美術館の所蔵です。 松方コレクションは、松方幸次郎氏が戦前に私財を投じて、西洋美術品や浮世絵を大量に収集したもです。 戦後に多くはフランスから返還されることになったのですが、「アルルの寝室」は残念ながら返還されずに、現在に至っています。 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh は、1853年にオランダ南部のズンデルトに、牧師の子として生まれ、1890年にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで自殺します。 享年37歳でした。 15歳から親戚の美術商に勤めましたが、7年後に退職します。 その後は牧師を志しますが挫折します。 1880年、27歳で画家をめざし、ブリュッセルやアントウェルペンで画学校に入りますが、ほとんど独学で絵の修業をします。 1886年にパリに出て、ロートレック、ベルナール、ゴーギャンらと知り合います。 1888年に南仏アルルでゴーギャンと共同生活をしますが、2ヶ月後に耳切り事件を起こし、精神病院に収監されます。 退院後アルルに戻ろうとしましたが、住民の反対にあい、サン・レミの精神病院での療養生活を余儀なくされます。 1890年にオーヴェル・シュル・オワーズで死去します。 ゴッホの作品は、油彩900点、スケッチ1100点が残っているそうですが、傑作のほとんどは、1888年2月から死ぬまでの2年半の間に描かれたそうです。 松方コレクションは、当時、㈱川崎造船所の社長であった松方幸次郎氏が、戦前に私財を投じて、西洋美術品や海外に渡った浮世絵などを収集した一大美術品コレクションをいいます。 とくにフランスに残された美術品を、戦後に返還を受け、国立西洋美術館の設立に至りました。 そのコレクションの中で、返還されなかった作品のひとつがゴッホの「アルルの寝室」です。 生まれてまもなく、南米ペルーのリマに渡り、1855年に帰国し、神学校に通い、1865年に航海士として、1868年からは海軍に在籍し世界各地を訪れています。 その後、株式の仲買人をしながら、日曜画家として印象派展に出品しています。 1886年からは、ブルターニュ地方のポン=タヴェンで、画家仲間とともに制作しました。 ポン=タヴェン派と呼ばれたそのグループは、クロワゾニスムという輪郭線で画面を構成する画法が特徴でした。 南仏アルルでのゴッホとの共同生活が破綻した後、地上の楽園を求めて、仏領タヒチに渡り、数々の名作を残します。 1893年に一旦帰国しますが、1895年に再びタヒチに戻り、フランスに帰国することなく亡くなりました。

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