リストのカンパネラ。 リスト / Liszt, Franz

海苔漁師がピアノ曲「ラ・カンパネラ」をフジコ・ヘミングの前で披露した理由とは?

リストのカンパネラ

ヴォルトゥオーソとは超絶技巧の演奏家たちのことだよ ロマン派時代には音楽雑誌等の情報流出が革新的に進歩した時代でもあるのでヴォルトゥオーソと呼ばれる超絶技巧を誇る演奏家たちは音楽雑誌にも大きく取り上げられました。 パガニーニとリストは同じロマン派時代の演奏家ですが歳は30ほど離れているので(リストが年下)ヴォルトゥオーソとしてはパガニーニは大先輩にあたります。 1832年、リストが初めてパガニーニの演奏を生で聴いたとき、凄すぎる演奏技巧に大きな衝撃を受け、パガニーニのヴァイオリンでの超絶技巧をピアノで表現しようと編曲を始めた訳です。 リストは1834年『パガニーニの「ラ・カンパネラ」の主題による華麗なる大幻想曲』を出版します。 (その後、何度か改訂される) リストのピアノ曲の中で最も有名で難曲 パガニーニの曲を編曲した『ラ・カンパネラ』は当然ながらヴォルトゥオーソの名に恥じぬ超絶技巧のオンパレードのような曲です。 聴く側からすれば鐘の音をイメージさせる素敵な曲という印象しかありませんが、演奏する側はかなり高度な演奏技術を要する曲です。 この『ラ・カンパネラ』を編曲し、自ら演奏するリストが「ピアノの魔術師」と呼ばれる理由もわかりますね・・・。 現在でも『ラ・カンパネラ』はリストの曲の中でも最も有名で難しい曲の一つです。 ラ・カンパネラは何度か改訂された? リストが最初に『ラ・カンパネラ』を発表したのが1834年です。 それから幾度か書き直しているようです。 パガニーニの「ラ・カンパネラ」の主題による華麗なる大幻想曲 これが最初の『ラ・カンパネラ』。 日本のピアニストではショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクールの2大国際コンクールにおいて唯一、両大会に入賞経験のある小山実稚恵さんが同曲について下記のように語ってます。 「即興から生まれているとしか言いようがなく、右手で弾いたらなんでも無いのに左手を交差するように指示していたり、音でも視覚でも魅せるように意識して、わざと難しくなるように楽譜に書き添えていて、(リストは)真のヴィルトゥオーソだったと思う」 (ウキペディアより引用) 現役で世界でもトップクラスのピアニストがこのように語る訳ですから、リストの演奏技術が如何に凄いかが伝わります。 『パガニーニによる超絶技巧練習曲』第3番 変イ短調 1838年にパガニーニの『24の奇想曲』、ヴァイオリン協奏曲の中から6曲を抜粋してピアノ用に編曲して出版されたのですが「超絶技巧練習曲」と名がつけられてますね・・・。 もうタイトルからして難曲であることが伝わります。 同曲を録音したピアニストは現在となっても6人しかいないのだとか。 『パガニーニの「ラ・カンパネラ」と「ヴェニスの謝肉祭」の主題による大幻想曲』 1845年の改作のようですが、今は演奏されることがほとんどないようです・・・。 『パガニーニによる大練習曲』第3番 嬰ト短調 1851年に発表された「パガニーニによる超絶技巧練習曲」第3番 変イ短調の改訂版。 これまでの『ラ・カンパネラ』の中では「もっとも常識的な難易度」のようです。 また曲全体の構成も見直し「鐘の音」のイメージを全面に押し出したそうです。 タイトルも「超絶技巧練習曲」から「大練習曲」と少し柔らかくなった感じwww 以上、4種ご紹介しましたが、現在『ラ・カンパネラ』は初版の「パガニーニによる超絶技巧練習曲」と改版の「パガニーニによる大練習曲」の2つで区別されること多く、前述の通り超絶技巧練習曲の方は6名しか録音していないほどの希少なものですから・・・。 現在、身近に聴ける『ラ・カンパネラ』のほとんどが「大練習曲」バージョンです。 リストのラ・カンパネラおすめ動画 ここからは『ラ・カンパネラ』の演奏動画をご紹介していきます。 演奏者の解釈の違いにより、印象も違ってきますのでお気入りの演奏を見つけてください! フジ子・ヘミングのラ・カンパネラ 他の演奏の『ラ・カンパネラ』に比べ、少しテンポがゆっくりめに聴こえますが・・・。 なんとも雰囲気のある演奏ですね。 フジ子・ヘミングさんは同曲について「ぶっ壊れそうな鐘があったっていいじゃない、機械じゃないんだから」と語っていたそうです。 どうしても超絶技巧の要する曲の演奏は機械的な印象になりがちですが、下手に技術を全面に出さずに自分らしさを重要視する味のある演奏に聴こえますね。 長富彩さんの紹介記事もありますので合わせてご覧ください。 容姿端麗で且つ確かな演奏技術・表現力を併せ持つユンディ・リは現代のリストのようなものなのかも知れません。 ロマン派時代、サロンの演奏会で貴婦人たちを虜にしたようにユンディ・リも世界各国でピアノを演奏するたびに女性を虜にするのだとか・・・。 『ラ・カンパネラ』はリストの代表曲の一つでリストを演奏するピアニストなら避けては通れないレパートリーでもあります。 現代の「リスト弾き」のピアニストをご紹介した記事もありますのでこちらも是非ご覧ください。 今回、ご紹介できなかったリストの名盤も取り上げています! まとめ リストの曲は超絶過ぎてショパンの曲と比較すると知名度は少し落ちるかも知れませんが、今回ご紹介した『ラ・カンパネラ』をはじめ、クラシック音楽入門者の方でも愉しめる曲(聴く側で)が沢山あるのでこれからもご紹介していきたいと思います。 以上、「【ラ・カンパネラ】リストの曲の中でも超絶技巧を要する代表曲」でした。

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海苔漁師がピアノ曲「ラ・カンパネラ」をフジコ・ヘミングの前で披露した理由とは?

リストのカンパネラ

フランツ・リスト 1839年 基本情報 別名 ピアノの魔術師 [ ] 生誕 領 死没 1886-07-31 (74歳没) 領 学歴 職業 フランツ・リスト(: Franz Liszt)、もしくは リスト・フェレンツ(: Liszt Ferenc、 - )は、出身で、現在のやなど各地で活動した、。 自身の生誕地(後述)であり、当時属していた(当時は支配下の版図内)をと呼び、としてのを抱いていたことから、死後も「」の音楽家として認識・記述されることが多い。 その一方で生涯を習得することはなく、両親の血統、、音楽家としての活動名義(フランツ・リスト)、最も長い活動地のいずれも「ドイツ 」に属し、当時の中東欧に多数存在したの系統でもある。 このような複雑な出自や、ハンガリー音楽を正確に把握していたとは言い難い作品歴から、非音楽大国系の民族運動としてのに含めることは殆どなく、多くはの中に位置づけられる。 ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。 また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、およびの創始者として知られる。 をはじめとする多くの弟子を育成した。 リストの一生(左から少年期・青年期・壮年期・老年期) 領内 ()ドボルヤーン(現在の )において、ハンガリーの貴族に仕えていた ()()の父と、(南ドイツ人)の母の間に生まれた。 ドイツ人フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのの家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。 家庭内においてはが使われていたこと、またドイツ語およびが主流の地域に生まれたため、彼のはドイツ語であった。 しかし、後にに本拠地を移して教育を受けたため、後半生はのほうを多く使っていた。 このほか数ヶ国語に通じながら、ハンガリー人を自認していた彼が生涯だけは覚えなかったことを不可解とする向きもあるが、時代背景的に生地・血統共に生粋のハンガリー人でさえドイツ語しか話せない者も珍しくなかったという事情から、の価値観が定着した現代の感覚でこれを疑問視することは適切とは言えない。 歌曲は大部分がドイツ語(一部はフランス語)で書かれている。 ハンガリー名は リスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていたことがある。 リストのハンガリーのではファーストネームの綴りがFerenczとなっていたのにも拘らず今日ではFerencと綴られるが、これはのの改革で苗字を除く全ての語中のczがcに変更されたためである。 からまでの公式の氏名は フランツ・リッター・フォン・リスト Franz Ritter von Liszt だったが、これはにによりリッター()の位を授けられたためであり、リスト自身は公の場でこのように名乗ったことは一度もなかった。 この称号はと結婚する際、カロリーネを身分的特権の喪失から守るために必要だったが、カロリーネとの結婚が婚姻無効に至った後、にリストはこの称号を自身よりも年少の叔父のエードゥアルトに譲った。 エードゥアルトの息子が法学者のである。 父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、にに移住し、でおよびに師事する。 にはへ行き、へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。 他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。 そのため、リストはとに師事した。 とパエールの手助けにより、翌年には『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。 4月13日にでコンサートを開いたとき、そこで老に会うことができ、賞賛されている。 その時のが、リストの芸術家生活50周年の祝典が行われた際、で発表されている(ただし無署名である)。 には父アーダムが死去し、わずか15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。 教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。 生涯に渡る信仰も深め、思想的には主義、後にはの自由主義的カトリシズムへと接近していった。 にの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。 同時代の人間である、、、らと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。 のの氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、に多額の災害救助金を寄付している。 ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。 また多くの女性と恋愛関係を結んだ。 特に、伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、にへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。 2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者の、さらにの妻になるである。 3児を儲けたものの、にはマリーと別れた。 再びピアニストとして活躍したが、に演奏旅行の途次であるで、当地の大地主であった侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。 彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。 にはからとして招かれた。 カロリーネの助言もあって、リストはで作曲に専念した。 にヴァイマルの宮廷楽長を辞任。 にはに移住し、に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、を司る資格はなく、結婚も自由である)。 それ以降『2つの伝説』などのように、に題材を求めた作品が増えてくる。 さらに1870年代になると、作品からは次第に感が希薄になっていき、の『エステ荘の噴水』は20世紀のに影響を与え、の『』に色濃く残っている。 同時にの『』も刺激を受けて書かれたものであると言われている。 『』の作曲時、にたくさんあるをみた印象をカロリーネ宛ての手紙に書いている。 「この3日というもの、私はずっと糸杉の木々の下で過ごしたのである! これらの古木の幹は私につきまとい、私はその枝が歌い、泣くのが聞こえ、その変わらぬ葉が重くのしかかっていた! 」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。 そして、に『』でを宣言したが、らのへとつながってゆく無調とは違い、のと同様の旋法が用いられた作品である。 この作品は長い間存在が知られていなかったが、に発見された。 この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2014年9月) ピアニストとしてのリスト [ ] リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「 ピアノの魔術師」と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなした。 その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていた。 彼の死後、彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われている。 「6本指」は誇張であるが、幼少時から指を伸ばす練習を重ね、指が長く12度の音程も軽々と押さえることができた彼は、10度を超える和音が連続する曲を作曲している(後にそれを8度に改訂している曲もある)。 彼の曲には両手を広げての4の音が多用された。 また速いでも音数の多いを多用した。 「」に代表されるように両手のオクターブ跳躍、ポジションの素早い移動も多いが、その兆候は処女作の「」作品1の第6曲で既に見られる。 そんな彼でも、の「」だけは初見で弾きこなすことができなかったという。 その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。 また高い演奏技術で万人受けしたリストの演奏に、はじめはショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。 しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。 当時無名であったが、書き上げた「」の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。 同じような話はについても伝えられ、彼の「」を初見で弾き「手が足りない! 」と叫んだという。 またのを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。 リストの友人であったの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしたという。 しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。 リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にないをふんだんに盛り込んでいた。 このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。 リストの演奏を聴いた人々の文献によれば、繊細ながら非常に情熱的で力強い演奏をしていたとされ、演奏中に弦が切れたり、ピアノのハンマーが壊れることが度々あったという。 そのため、最初から3台のピアノを用意して演奏をしたこともあった。 1台が壊れたら次のピアノに移って演奏、といった形である。 また、のピアノ製造会社であるはリストの演奏に耐えた事で有名になった。 リストの演奏を聴いてあまりの衝撃に気絶する観客がいた話は有名だが、リスト自身も演奏中に気絶することがあったという。 ほかにも、当時天才少女として名を馳せていた(のちのクララ・シューマン)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したり、自分の演奏を聴かないの皇帝に向かって「陛下が話されているうちは私も演奏ができない」と言い放ったというエピソードも見られる。 リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われている(演奏中のリストの写真や肖像画で鍵盤を見て弾いているものは1枚もない)。 また、リストの弟子たちには非常に演奏技術が高いと評されるピアニストが多いが、その弟子たちの誰もがこぞってリストの演奏を賞賛しており、誰一人貶していない。 この事はリストが演奏家としての絶頂期には、今日超難曲と言われている曲々を(おそらくは即興により楽譜以上に音を足して)見事に弾きこなしていたことの間接的な証であると言える。 指導者としてのリスト [ ] リストは芸術家が演奏以外で巨額の収入を得ることを好まないとして、無料で指導を行った。 一方でリストの指導者のツェルニーは、優秀な生徒であっても高額な謝礼の支払いが出来なければ指導を打ち切ったこともあった(ただし、リストには無料で指導した)。 リストは、そんなツェルニーにを献呈している。 リストは生徒にリストの真似を強要することなく、むしろ真似ることを嫌い、各生徒の個性重視を好み、探求させた。 技術面での指導は最小限にとどめ、馴染みやすい言葉や、ウィットに富んだ表現を使うことがしばしばあった(一例としては、小人の踊りであやふやなリズムになったときに「ほら! またサラダを混ぜてしまったよ」)。 マスタークラスを考案したリストであるが、いくつかの楽曲をそれで教えることを避けた。 人格者としても知られ、「リストの弟子」を偽って演奏するピアニストを家に招き、自分の前でピアノを演奏させ「これで私が教えたことになる」と言ったという逸話も残っている。 1884年フランツ・リストと生徒たち 作曲家としてのリスト [ ] 音楽史的には、が提唱したをさらに発展させたを創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、にこだわるらとは一線を画した。 自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。 また編曲が得意な彼は自身の作品の多くをピアノ用に編曲している。 膨大な作品群は殆ど全てのジャンルの音楽に精通していると言っていいほど多岐にわたる。 彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年〜1850年頃)、時代(1850年頃〜1860年頃)、晩年(1860年頃〜没年)と3つに分けられる。 ピアニスト時代はオペラのなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。 このころの作品は現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。 一方ヴァイマル時代はピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としては最も活躍した時代である。 彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。 ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。 過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。 また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。 晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。 この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。 特に以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。 最終的に彼はに『』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。 またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。 『』『』を始め『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や『十字架の道行き』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。 これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「 ()」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。 評論家としてのリスト [ ] 同時代に評論活動を活発に行ったほどではないが、リストも音楽誌に多数の評論を寄稿している。 たとえばシューマンに「非芸術的」と酷評されたの「悲愴な様式による3つの思い出 作品15」については、シューマン同様に「細部が粗雑」と評価したものの、作品そのものは高く評価している。 このほか、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品の評価も積極的に行った。 評論と平行して、を評価して資金援助を行うなど、才能を認めた作曲家に対しての援助を行ってもいた。 との2派に別れていた当時のドイツ音楽界の中で、リストは弟子のビューローと供にワーグナー派につき、ブラームス派についたと対立している。 帰属にまつわる逸話 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2007年1月) 父アーダムが自身を生まれ付いてのハンガリー人だと認識していたように、リストもまた同じように自らをハンガリー人だと認識していた。 がほとんど話せないことを後ろめたく思いながらも、11歳までを過ごしたを祖国として愛しており、後年はブダペストに音楽院を設立するために尽力した。 「」は、によって編曲された演奏を取材し、それをハンガリーの古来の伝統的音楽と位置づけた。 ロマへの偏見が根強かった一部の愛国的ハンガリー人 Magyarmania には耐え難い混同であり、祖国での彼の評価に暗い影を落とすことになる。 後にハンガリー民謡の収集を行い、その特徴を分析したは後のであるブダペシュト王立音楽院で音楽を学んでいる。 ピアニストとしてもリストの弟子である ()から直々に教えを受けており、本人もリストの楽曲で幾つかの録音を残している。 作曲家としても影響を受けており、最初期の作品である『ピアノのためのラプソディー Op. 1』では、リストの影響を垣間見る事が出来る。 その彼はリストの編曲作品について、自著『ハンガリー民謡』 1920年 で「曲の構造を理解していない歪曲がされたハンガリー民謡 」だとしてこれを厳しく批判しているが、作曲家としてのリストについては、数々の音楽論集や『リストに関する諸問題』 1936年 の中では、それまでの作曲家になかったほど、宗教的音楽から民謡など多様で異質な種々さまざまの影響を受け入れて自身の作品を作り上げていった点、晩年の諸作品がらの作品と驚くほど似通っていることの先進性などを取り上げ、欠点があるとしても、音楽の発展への貢献ということであればリストはワーグナーより重要視されるべきだと、むしろその音楽を擁護する立場をとっている。 今日ではハンガリー音楽の中興に尽くした功労を評価され、同国では名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。 リストの名を冠した音楽院はブダペストとワイマールの両方に存在する。 生地が現在帰属するオーストリアでは、リストがウィーン楽壇と縁が薄かったこともあり、両国に比べると自国の音楽家という意識はやや薄いようである。 主要作品 [ ] 詳細は「」および「」を参照 リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿……というように改訂稿が存在するものが非常に多い。 改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。 また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。 現在はリストの作品の再評価が着実に進んでおり、の『リスト・ピアノ曲全集』(全57巻、CD95枚)はその代表例である。 なお、この全集(補遺1巻、2巻を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)。 彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家が分類した曲目別の目録であるサール番号 S. と、リスト博物館館長のによる曲目別のラーベ番号 R. の2つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。 歌劇 [ ]• 1 [約1時間50分]• () S. 687 - 未完 管弦楽曲 [ ] 交響曲 [ ]• Eine Faust-Symphonie in drei Charakterbildern S. 425, 1854年 [約80分]• Eine Symphonie zu Dantes Divina Commedia S. 426, 1855-56年 [約50分] 交響詩 [ ] リストはにというジャンルを確立した。 彼は13曲の交響詩を作曲しているが、今日『』以外が演奏されることはまれである。 『』 Ce qu'on entend sur la montagne S. 412, 1848-56年 [約30分] 『山岳交響曲』 Berg-Symphonie とも。 『』 Tasso, lamento e trionfo S. 413, 1848-54年 [約21分]• 414, 1848-53年 [約15分]• 『』 Orpheus S. 415, 1853-54年 [約11分]• 『』 Prometheus S. 416, 1850-55年 [約13分]• 『』 Mazeppa S. 417, 1851-54年 [約16分]• 418, 1853年 [約20分]• 419, 1849-54年 [約27分]• 『』 Hungaria S. 420, 1854年 [約23分]• 『』 Hamlet S. 421, 1858年 [約14分]• 『』 Hunnenschlacht S. 422, 1856—57年 [約15分]• 『』 Die Ideale S. 423, 1857年 [約27分]• 『』 Von der Wiege bis zum Grabe S. 424, 1881-82年 [約14分] 管弦楽曲 [ ]• 427 1861年完成• 113a 1861-63年? 3つの葬送的頌歌 S. 112 1860-66年• 111 1880-81年 ピアノと管弦楽のための作品 [ ]• 453 H2)1834年:の「」に基づく。 452 1830年頃• 454 H9 1849年• 455 1849年• 456 1839 - 61年• 125a• 457 1849 - 59年:(ディエス・イレ)の主題に基づく。 459 :のピアノ独奏曲に基づく。 ハンガリー様式の協奏曲:の作品をが協奏曲として編曲とされているが、の作品ではなくリスト作曲もしくはリストの手を含むの曲とする説も存在することから、リストの作品として演奏されたりCDに書かれている例もある。 ピアノ曲 [ ] オリジナル作品 [ ]• 第4曲「」• 第5曲「鬼火」• 第3曲「」• 第6曲「」• 第3曲「ため息」• 巡礼の年 第1年:スイス S. 10a• 巡礼の年 第2年:イタリア S. 10b• 巡礼の年 第2年補遺:(初稿:S. 10d, 改訂稿:S. 10c)• 巡礼の年 第3年 S. 10e• 15 、 S. 106 (全19曲。 第2番が最も有名)• 、3つの夜想曲 S. 211• 215• 悲しみのゴンドラ S. 200• リヒャルト・ワーグナー -ヴェネツィア S. 201• 60c• 213, 改訂稿:S. 213a)• 219 、その簡易稿 S. 219bis 編曲 [ ]• :(9曲) S. 128• : S. 134, 136• :ヴィオラとピアノによる『』(S. 472)、オーケストラ・パートをピアノに編曲したもの。 :歌劇『』のカヴァティーナ S412a• :『』の回想(歌劇『ユグノー教徒』の主題による劇的大幻想曲)(S412/R221)• :前奏曲とフーガ(6曲)543-(S. 119)• :交響詩『』 S. 240 - リスト自身の「死の舞踏」とは別の作品である。 :『』より「紡ぎ歌」 S. 273 『』序曲 S. 275 、『』より「イゾルデの愛の死」 S. 280• :『』 S. 245 『』 S. 246 『』『』 S. 243 など多数の歌曲• :歌曲集『』から『献呈』 S. 253• 228 (原曲:)• 267 (原曲:)• 133 (原曲:)• 歌劇『』より ワルツ S. 166 (原曲:)• 『』より 結婚行進曲と妖精の踊り S. 219 (原曲:) 「」で有名な『』はの原曲によりながらも独創性の強い作品とされ、サール番号での分類をはじめ、通常は編曲とは看做されずオリジナル作品に分類される。 ただしその前身である『』 S. 420 は編曲作品とみなされる。 宗教音楽 [ ]• オラトリオ「聖スタニスラウス」 S. 1 - 未完成• オラトリオ「」 S. 477 1862年 [約1時間40分]• オラトリオ「」 S. 478 1867年 [約2時間50分]• 荘厳ミサ曲 S. 9 1855年[約55分]• 戴冠式のミサ曲 S. 11 1867年[約45分]• レクイエム S. 12 1868年• 詩篇第13篇 S. 13 1855年 [約25分] 歌曲 [ ]• おお、愛して下さい、愛しうる限り長く ピアノ曲『』の原曲) S. 298 - 原詩『』• の3つの S. 270• ローレライ S. 273• 696 - 不明者が完成• モーツァルトの「」と「」の主題による幻想曲 S. 697 - の改訂で普及、レスリー・ハワードによる補筆完成版あり• によるメロディ S. 701d - 死の舞踏 S. 126 のスケッチ 偽作作品 [ ]• ベネディクトゥス S. 706 - 偽作? リナルド S. 708 消失作品 [ ]• 交響的大幻想曲 S. 716• 葬送行進曲 S. 745• アンダンテ・マエストーソ S. 746• ポコ・アダージョ S. 747• ロッシーニ 歌劇「ノネットとモーゼ」の主題による幻想曲 S. 751 - 紛失したが、恐らく未完のまま放棄? オルガン交響詩 S. 758 主な弟子一覧 [ ]• フランツ・リスト• (にも学ぶ)• (にも学ぶ)• リルディア・ビー・オブライアン=クライバーン の実母• にも学ぶ• にも学ぶ• リストと同門には名教師がいる。 リストとレシェティツキとでは弟子の取り方に違いがあり、レシェティツキは「来る者は拒まず」然で弟子をどんどん採った(多く採りすぎて、大半は助手が教えていた)のとは対照的に、リストは才能を感じる者だけを弟子として採っている。 親族 [ ]• 義子 (コジマの1番目の夫)• 義子 (コジマの2番目の夫)• 孫 (リヒャルトとコジマの息子) 著作 [ ]• 『F・ショパン』 F. Chopin - ショパン亡き後のにパリで出版。 彼の作品や生涯について、彼の故郷であるポーランドの風俗や国民性を参照しながら綴ったもの。 日本語版として『ショパンの芸術と生涯』(蕗沢忠枝訳、モダン日本社、1942年)と『ショパン その生涯と芸術』(・速水冽訳、宇野書店、1949年)の2種類がある。 関連項目 [ ]• - 1960年の映画。 リストを扱った伝記映画。 () - 1964年の映画。 が、リスト作曲の「愛の夢 第3番」をアレンジした「恋の讃歌」を挿入歌として歌う。 アン=マーグレットとのデュエット・バージョンもある。 - リストの激しい演奏に耐えたことで名声を得たピアノフォルテ製造会社。 () - 1975年の映画。 監督、主演、音楽監督でリストを扱った伝記映画。 脚注 [ ] []• リスト在世時、1871年以前は主権統一国家としてのドイツは存在しなかった。 「」「」を参照。 リストと父親の生地はこの域外(母親および4人の祖父母は域内の出身)である。 原因は「リストマニア」と呼ばれる熱狂的女性ファンと多数の情事にふけったことと言われているが、それ以上に身分と人種の問題が大きい。 『The Classic Collection』第18号より。 - allmusic. com• ジプシー固有の音楽でもない。 そういった音楽はまた別に存在しており、バルトークは民俗音楽研究の中で取材している。 も1912年に「リストの小品、あるいは全作品についてまわる欠陥こそが、ワーグナーを含めたドイツ、ロシア、フランスのまるで違った個性を持つ音楽家達に大きな影響を与えたのだ」とバルトークと似たような主張をしている。 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2013年1月) ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 Demko, Miroslav 2003. Walker, Alan 1984. Franz Liszt, The Virtuoso Years 1811-1847, New York: Alfred A. Knopf. Walker, Alan 1989. Franz Liszt, The Weimar Years 1848-1861, London: Faber and Faber Limited. 福田弥『リスト』〈作曲家・人と作品〉、2005年• ロベール・ポリー『ベートーヴェン 目で見るドキュメント』武川寛海訳、音楽之友社、1970年 外部リンク [ ]• として無料で入手可能。

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ピアニストでも大変!リスト「ラ・カンパネラ」難易度と弾き方のコツ!

リストのカンパネラ

「ラ・カンパネラ」はピアニストも演奏を避けるほどの超難曲です。 超難曲とはいえ、ピアニストなら弾けないということはありません。 私達からすれば充分過ぎるほど弾けているように見えても、自身の演奏に納得がいっていなかったり、そもそもこの曲が好きではなかったりするため、レパートリーに入れないということです。 ピアニストにもいろいろなタイプがあり、メロディックな曲が得意なピアニストもいれば、テクニック的な曲が得意なピアニストもいます。 他にも、得意な作曲家の作品ばかりを弾く偏った選曲をするピアニストもいれば、逆にどの作曲家の作品も弾くオールマイティーなピアニストもいます。 「ラ・カンパネラ」をレパートリーにしているピアニスト達はテクニック的な曲がとても得意な方達が多いです。 この曲はピアノのある機能が向上したことにより、それまでは出来なかった演奏が可能になったため、作曲することが出来ました。 前回、は書かせて頂きましたので、今回はピアノの発展について触れながら難易度と弾き方のコツをお教えします。 ピアノの発展は、ただ音域が広がっただけじゃないんです!! 1700年頃に作られた「グラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」(通称、ピアノフォルテ)は、音の強弱が演奏者のタッチによってコントロールできるという、当時としては画期的な楽器でした。 ピアノフォルテは、イタリア(フィレンツェ)のメディチ家お抱え楽器製作家だったクリストフォリが製作しました。 この楽器が現在のピアノの原型と言われています。 初めから現在のように広い音域があった訳ではないということは、皆さんご存知でしょうか。 当初は狭かった音域は、次第に広がっていき、現在の88鍵になりました。 時代による音域の変遷を作曲家と照らし合わせてご紹介します。 クリストフォリの発明を基にそのアクション(発音構造)も時代とともに発展し、現在のピアノの構造に至りました。 ピアノのアクションには、元々ウィーン式とイギリス式の2種類がありました。 モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンなどの作曲家がウィーン式アクションを使用したピアノを愛用しました。 イギリス式のピアノの発展は、ショパンやリストの作品に大きな影響を与えました。 リストのような超絶技巧を得意とするピアニスト達が現れると、聴き応えのある演奏にするため、より大きな音量が出せるピアノが求められるようになりました。 そのような要望を受け楽器製作者たちは、ハンマーを大きくしたり、張力の増した弦を支えるために鋳物を導入したりとピアニストの望む楽器を次々と作り出していきました。 ウィーン式は構造上の限界があり、そのような発展にはついていけず、20C初め頃に事実上消滅してしまいます。 そのため、特別な機会がない限り、現在私たちが手にするピアノはイギリス式アクションによるものだけになってしまいました。 残念ですよね!しなやかに歌わせることができる、ウィーン式アクションのピアノの音色を感じてみたかったですね!! リストの演奏は激しかったようで、リサイタル時にハンマーが折れたり、弦が切れたりしていたため、あらかじめ何台ものピアノを用意していたそうなんです。 ウィーン式アクションにも関わらず唯一、ベーゼンドルファーのピアノだけが無事だったそうです。 そのことがきっかけとなり、ベーゼンドルファーは壊れにくいピアノを作るメーカーとして一躍有名になったそうです。 (ベーゼンドルファーは元々ウィーン式アクションでピアノを製作していましたが、のちにイギリス式に転向したため、現在も残っています。 ) ハンマーが折れるって…リストは、どれだけ叩いて弾いていたんでしょう?? リストの家はピアノだらけ!?毎年新しいピアノを貰っていた!! リストの家にはピアノ製作者から贈られたピアノがたくさん置いてあり、まるでピアノ売り場のようだったそうです。 1度だけ贈られるのではなく、毎年新品のピアノに取り換えに来たそうです。 引き取ったピアノは「リスト使用」ということで、とても高く売れたんだそうですよ。 いろんなピアノを弾き放題!!いいですね~。 しかも、毎年新しいピアノですよ!!羨ましい… たくさんのピアノを所有していたリストですが、中でもエラールのピアノとの関係はとても密接でした。 エラールによる「ダブル・エスケープメント」というアクションの発明は、それ以前のアクションよりも素早く連打することを可能にしました。 このアクションの発明がなければ、現在演奏されている「ラ・カンパネラ」は作曲されていませんでした。 素早い連打が演奏可能になったからこそ、この名曲が生まれたのです。 エラールのピアノと共にリストは、ピアノという楽器の技巧の可能性を追求しました。 リストの頃までは、作曲家兼ピアニストというのが普通でした。 しかしそれ以降は、多くの作曲家がリストと同じようにピアノの技巧の追求を行ったので、ピアニスト達はそれまで以上にテクニックの向上が要求され、作曲家とピアニストを兼任することが難しくなりました。 そのため、次第に分業が進んでいきました。 実は、現在演奏されている「ラ・カンパネラ」より難しい版が存在する! リストの「ラ・カンパネラ」はパガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章<鐘>の主題を研究し、それを基にして作曲されたものです。 「ラ・カンパネラ」とは、日本語で「鐘」という意味です。 リストは「ラ・カンパネラ」というタイトルがついたものを4曲作っています。 演奏されることはない。 現在私達が「ラ・カンパネラ」と呼んでいる曲は、1851年に作曲されたもので、 「パガニーニ大練習曲第3番」のことを指しています。 改訂される前の「ラ・カンパネラ」は、現在よく演奏されているものよりも圧倒的に難しいです。 聴くと驚きますよ! 現在よく演奏されているものは、まだマシだったなんてビックリですよね!! 「ラ・カンパネラ」の難易度はどれくらい? 難易度はもう言うまでもないと思いますが… 超を何個つけても足りないくらいの超上級レベルです!! ピアノを習いに来られたお子さんや大人の方がいつか弾きたい曲にこの曲を挙げられることが、たまにあります。 今までの人生のほとんどをピアノと過ごして来た私ですら、まともに弾けないのに…何を言ってるんだ!!と思いますが、それだけ迫力があって、魅力的な曲だということは、よく分かります。 音をかなり抜いて本当に簡単に編曲したものなら弾けると思いますが、完全版を弾くのは、はっきり言って無理です。 残念ですが、諦めて下さい! ピアニストだって避けるような曲ですからね…。 リストの身長は、180cm以上で指も腕も長かったそうです。 彼の手も、もちろん大きく、広げると10度(ド~1オクターブ上のドの3度上のミまで)が余裕で弾けたそうです。 それ程の手の大きさと指の長さがあれば、跳躍の多いこの曲も楽々弾きこなしたんでしょうね。 このような理由から、「ラ・カンパネラ」を弾くには手が大きく、指や腕が長い人が有利です。 もちろん、ただ指や腕が長いから弾けるというのではなく、そのような素質のある人が相当な覚悟でピアノ道を極めた結果、弾けるようになるということです。 こちらの全音版には解説がついており、改訂される前の楽譜も入っているので違いを比較することができます。 どこが難しい??超難曲の弾き方のコツ! どこが難しいのかは、もうたくさんあり過ぎなのですが…弾き方のコツを5つにしぼって説明していきますね。 手の大きさや手首のしなやかさは人によって違うので、必ずしもこの弾き方や練習の仕方がベストではないかもしれませんが、参考になさって下さい。 メロディーは1の指側(右手の上向きの8分音符)にあります。 (5の指側にメロディーが来る箇所もあります。 でも外さないようによく練習しましょう。 ただ指だけで弾くのではなく、手首を少しひねるようにして 手首で弾くような弾き方をマスターしましょう。 この部分を手首で弾くには、指をどこに置くかがポイントになります。 1の指と5の指を鍵盤に置いたときに、位置が真横になると手首をあまりひねることが出来ません。 手首の動きをスムーズにするには、5の指を少しピアノの蓋側で弾くようにし、1の指と5の指の弾く位置を少し変えるんです。 そうすると手首をひねりやすくなり、動きが良くなると思いますので、試してみて下さい。 スキーのジャンプのように、飛ぶ前の音でしっかり踏み込んで勢いよく飛ぶようにしてみましょう。 その時に上に飛ぶと時間ロスになります。 次の音の方へ斜めに飛んで行くようにしましょう。 距離がかなりある跳躍の箇所は、何度も何度も練習をして感覚を掴むしかありません。 手を見なくても飛べるように感覚で弾けるようになれば外しにくくなります。 この部分は、それだけでなくメロディーも弾かなくてはいけません。 まずは、トリルの練習をしましょう。 トリルを1つずつ指を上げて弾いていては、すぐに疲れてしまいます。 こんな練習をしてみてはいかがでしょうか。 次の音は勢い余って指が当たってしまった程度で弾きます。 同じように1つ目の音はしっかり弾きます。 残りの3つは1つ目でしっかり弾いた分の余力で弾きます。 指をほとんど動かさないようにしましょう。 最初はゆっくり練習しましょう。 出来るようになったら速く弾いてみて下さい。 たくさんトリルを弾くと楽に弾けるコツが分かってくると思います。 この曲の強弱記号をよく見て下さい。 フォルテの指示が出るのは、最後の2ページです。 それまでは軽くて良いのです。 最後の2ページまでに力を使ってしまわないように、我慢しましょう。 難しいと思うと力が入ってしまいますが、難しいからこそ、力を抜くんです! 力むと指と手首の動きが悪くなります。 動きが悪くなると、ミスが増えてしまいます。 それまで弾けていたのに急に弾きにくくなった時は、たいてい力みが原因です。 この曲の場合、もしかしたら納得がいくように弾けないかもしれません。 しかし、その努力は絶対ムダにはなりません。 この曲を一生懸命練習すれば、皆さんが今までに弾いて来られた曲が前よりも断然弾きやすくなっていると思います。 テクニック的に難しい曲は、作曲家からピアノを弾く者への挑戦状です。

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