二期会 蝶々 夫人。 二期会「蝶々夫人」 後悔し続けたピンカートン?

日本人として史上初の快挙!オペラ歌手 大村博美が世界の名門 プッチーニ・フェスティバルにて2年連続『蝶々夫人』主演決定!|公益財団法人東京二期会のプレスリリース

二期会 蝶々 夫人

による1904年、ミラノスカラ座初演のポスター 『 蝶々夫人』(ちょうちょうふじん、Madama Butterfly, マダマ・バタフライ)とは、によって作曲された2幕もののである。 いわゆるプッチーニの 「ご当地」(あとの2作は「」、「」) [ ]の最初の作品である。 を舞台に、没落藩士令嬢の 蝶々さんとアメリカ海軍士官 ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く。 物語は、の弁護士が1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン1月号に発表した短編小説( Madame Butterfly)」を原作にアメリカの劇作家が制作したを歌劇台本化したものである。 、ので初演されたそれは大失敗だったが、同年5月28日で上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となっている。 色彩的なと旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあり、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品である。 特に第2幕の「ある晴れた日に」は非常に有名である。 反面蝶々役の歌手にとっては終始出ずっぱり・歌のパートも長く多い 第二主役であるピンカートンの数倍に及ぶ ため、また若く愛らしい娘の役であるにも拘らず、プッチーニのソプラノ諸役の中でも特にが低く、中低音域に重点を置いた歌唱が求められるため「 ソプラノ殺し」の作品とも言われる。 基本データ [ ]• 原作 - の短編小説「蝶々夫人」とこれを戯曲化したの「蝶々夫人」• 台本 - と• 作曲 - ジャコモ・プッチーニ• 初演 - 、、の 作曲の経緯 [ ] 蝶々夫人との出会い [ ] プッチーニは24歳の若さで最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の「」で一躍脚光を浴びた。 その後「」()、「」()と次々と傑作を生み出した。 彼が「蝶々夫人」を書くのは、そんな音楽家として、正に脂の乗り切った時期であった。 「」を発表してから、次のオペラの題材をプッチーニは探していた。 「トスカ」が英国で初演されるときプッチーニはに招かれた。 その時、デーヴィッド・ベラスコの「蝶々夫人」を観劇した。 英語で上演されていたため、詳しい内容はわからなかったが、プッチーニは感動し、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選んだ。 制作の開始 [ ] 同年にプッチーニはミラノに戻ると、『トスカ』の台本の執筆を手がけたイルリカとジャコーザに頼んで、最初から3人の協力で蝶々さんのオペラの制作が開始された。 翌年には難航していた作曲権の問題も片付き、本格的に制作に着手した。 プッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励んだ。 当時の日本大使の妻・久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めた。 にはプッチーニはで渡欧していたに会ったとも云われている。 オペラ歌手の小嶋健二がイタリアの指揮者セルジオ・ファイローニ(Sergio Failoni)の未亡人から聞いた話では、ファイローニがプッチーニに蝶々夫人をなぜ作ったか聞いたところ「日本女性を愛してみればよくわかる」と答えたという。 自動車事故と結婚 [ ] 2月にプッチーニは自動車事故に遭って大腿部を骨折し、一時は身動きも出来ない重傷を負った。 春になると車椅子生活での作曲を余儀なくされた。 しかしプッチーニは制作を精力的に進め、その年の12月27日に脱稿した。 その年の内に楽譜は小説「蝶々夫人」も初版と同じセンチュリー出版社からヤーネル・アボットの挿絵入りの単行本として出版された。 原作者ロングはこの小説の戯曲化とオペラ化を大いに喜んで序文に「あの子が美しくかつ哀しい歌を歌って帰ってくる」と記している。 また翌1904年1月3日にはプッチーニはトッレ・デル・ラーゴで夫人エルヴィラと正式に結婚の儀式を行っている。 初演の失敗と後世の評価 [ ] 1907年にベルリン国立劇場公演で大成功をおさめたはニューヨークのメトロポリタン劇場だけでも100回近く蝶々夫人を演じた 現在ではイタリアオペラの主要なレパートリーとなっている「蝶々夫人」だが、2月17日、での初演はプッチーニの熱意にもかかわらず振るわなかった(彼の作品は本作に限らず、初演で不評を買うのが常であった )。 失敗の理由はいくつか指摘される。 初演版では、第2幕に1時間半を要すなど上演時間が長すぎたことや、文化の異なる日本を題材にした作品であったため観客が違和感を覚えたという原因が挙げられている。 ひどく落胆したプッチーニだったが、すぐさま改稿に取りかかった。 改訂版の上演は3か月後の同年5月28日、イタリアので行われ、大成功を収めた。 その後、ロンドン、パリ公演とプッチーニは何度も改訂を重ね、1906年のパリ公演のために用意された第6版が、21世紀の今日まで上演され続けている決定版となっている。 本作は抒情的なテーマを盛り上げる美しいや複雑な効果の使用などプッチーニの音楽の特色が現れた作品であり、イタリアオペラを代表する演目の一つとなっている。 プッチーニにとっては、によって完成されたロマン派オペラの後継者としての地位、イタリアオペラのの地位を確立させることになった代表的作品である。 編成 [ ] 配役 [ ] 主な登場人物 [ ]• 蝶々さん(蝶々夫人)()• ベンジャミン・フランクリン・ピンカートン()• シャープレス() 脇役とされる登場人物 [ ]• ヤマドリ公爵(テノール)• ゴロー(テノール)• ボンゾ(蝶々さんのおじ。 「坊主」か? )()• スズキ()• ケイト・ピンカートン(ピンカートンのアメリカ本国での妻)(メゾソプラノ) その他の登場人物 [ ]• 登記係• 蝶々さんの母• 蝶々さんのおば• 蝶々さんのいとこ• 薬師手(バリトン)• 蝶々さんの子• 蝶々さんの知り合いと船乗りたち 楽器編成 [ ] (第3フルート持ち替え)・2、2、、2、、2、4、3、3、(多くはで代用)、、、、、、、、、、(14型) 舞台裏で(通常で代用される)・銅鑼・類・・・大砲 演奏時間 [ ] 約2時間20分(第1幕50分、第2幕60分、第3幕30分)、初稿:約2時間30分(第一幕60分、第二幕90分 あらすじ [ ] 時と場所:の。 第1幕 [ ] アメリカ海軍の戦艦エイブラハム・リンカーン所属の海軍士官ピンカートン Pinkerton は日本人の少女と結婚することになった。 結婚斡旋屋のゴロー Goro が、長崎にきたピンカートンに、結婚後に暮らす丘の麓の家や、のスズキ Suzuki や下男を紹介して機嫌を取っている。 そこへ駐長崎領事のシャープレス Sharpless がやってくる。 ピンカートンはここで アリア「ヤンキーは世界のどこへ行っても」を歌う。 シャープレスは優しい心の男であり、ゴローが紹介した少女がこの結婚が永久の縁と堅く信じていることを思い出し、戸惑う。 だがピンカートンは、この結婚も一時の愛だとシャープレスの危惧を一笑に付すのであった。 1913年、フランセス・アルダによる歌唱 この音声や映像がうまく視聴できない場合は、をご覧ください。 そこへ蝶々さん Cio-Cio-San が芸者仲間とともに現れる。 このとき 「さあ一足よ」を歌う。 シャープレスが可憐なこの15歳の少女に身の上を問うと、実家はの没落の家であると答え、父から頂いたのための刀の入った箱を披露する。 それにより、座は一時しらけてしまうが、ゴローによって結婚式の準備が進められる。 蝶々さんは前日にに改宗したことを告げる。 など一連の結婚の儀式が済んだ頃、蝶々さんの叔父のボンゾ Bonze が現れる。 彼は蝶々さんの改宗を怒って詰問するが、ピンカートンに追い払われる。 うろたえる蝶々さんを慰めるピンカートン。 2人はここで 愛の「可愛がってくださいね」を歌う。 第2幕 [ ] 結婚式から3年が過ぎた。 ピンカートンは任務が終わり、アメリカ合衆国に帰ってしまっていた。 彼は蝶々さんに「が巣を作る頃には帰ってくる」と約束していた。 蝶々さんの忠実な下女スズキは彼は既にそれらを反故にしたのではと疑うが、ピンカートンを信頼する蝶々さんにとがめられる。 きっと夫は帰ってくると信じてやまぬ蝶々さんは、ここで アリア「ある晴れた日に」を歌う。 その頃、シャープレスはピンカートンがアメリカ本国でアメリカ人女性と結婚したことを本人の代わりに蝶々さんに告げることになっていた。 しかし蝶々さんの夫への信頼を見た彼は、それを壊すようなことはできなかった。 蝶々さんはピンカートンの手紙を見て喜ぶ。 そこへゴローが裕福な紳士ヤマドリ公 Prince Yamadori を連れてやってくる。 ヤマドリ公は蝶々さんに結婚を申し出るが、夫からの手紙に喜んでいる蝶々さんはそれを拒否する。 ゴローは蝶々さんは離婚された妻であると説明しようとしたが、蝶々さんは激しく断る。 「それは日本の習慣に過ぎない。 今の私はアメリカ人である」と。 ゴローとヤマドリ公がすごすごと帰ってしまうと、シャープレスと蝶々さんは 「友よ、見つけて」を歌う。 そして、シャープレスがピンカートンが帰ってこなければどうするのか、と蝶々さんに問うと、芸者に戻るか、自刃するしかないと答え、困惑したシャープレスが「ヤマドリ公の申し出を受けてはどうか」と勧めると、「あなたまでがそんなことを言うのか」と怒り、シャープレスに彼女とピンカートンとの子供を見せ、「わが夫がこの子を忘れようか」と言い放ち、「子供のために芸者に戻って恥を晒すよりは死を選ぶわ」と泣き叫ぶ。 シャープレスはいたたまれずに去っていく。 スズキは蝶々さんの悪評を拡げようとするゴローを捕まえる。 蝶々さんにとって悪い話が次々と届く中、遠くにピンカートンの所属艦エイブラハム・リンカーンが兵員の到来を礼砲で告げた。 それを望遠鏡で見つけた蝶々さんとスズキは喜び、家を花で飾り、 二重唱「桜の枝を揺さぶって」を歌う。 そして自分達と子供を盛装させ、障子を通して、ピンカートンの帰りを凝視する。 夜が過ぎ、長いオーケストラとの ハミングコーラスのパッセージが演奏される中、スズキと子供は眠ってしまう。 蝶々さんは決して後悔していなかった。 第3幕 [ ] 夜が明けた蝶々さんの家。 蝶々さんは寝ずの番をしていた。 スズキは目覚め、子供を蝶々さんのもとへ連れて行く。 スズキは憔悴した蝶々さんを休むよう説き伏せる。 ピンカートンとシャープレスが登場し、スズキに恐るべき真実を告げる。 しかし、ピンカートンは罪悪感によって深く打ちひしがれ、自身を恥じていた。 余りに卑劣なことで自分の口から蝶々さんに告げることはできず、彼は義務を放り出して去ってしまう。 このときピンカートンは アリア「さらば愛の巣」を歌う。 スズキは、はじめは猛烈に怒っていたが、シャープレスから、蝶々さんが子供を渡してくれれば、ピンカートンのアメリカ人妻がその子を養育するということを聞き、説き伏せられてしまう。 蝶々さんはピンカートンと会えると思い、目を輝かせて登場する。 しかしピンカートンの代わりに彼のアメリカでの妻ケイト Kate Pinkerton と対面させられる。 蝶々さんは感傷的な穏やかさをたたえつつ真実を受け止め、礼儀正しくケイトを祝福した。 これで平穏が見いだされるであろうと。 それから、ケイトやシャープレスにお辞儀をし、子供を渡すことを約束する。 そしてスズキに家の障子を全部閉めさせ一人きりになる。 障子越しに侍るスズキに対しては、「子供を外で遊ばせるように」と命じて下がらせる。 蝶々さんは仏壇の前に座り、父の遺品の刀を取り出し、「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん(Con onor muore chi non puo serbar vita con onore. )」の銘を読み自刃しようとするが、そこへ子供が走ってくる。 蝶々さんは子供を抱きしめ アリア「さよなら坊や」を歌い、子供に目隠しをし、日米の国旗を持たせる。 そして、刀を喉に突き立てる。 今際の際でも子供に手を伸ばす蝶々さん。 そこへ異変を聞きつけたピンカートンとシャープレスが戻ってくるが、とき既に遅く、蝶々さんは息絶える。 著名なアリア [ ]• 「ある晴れた日に」• 「蝶々夫人」の中でも特に代表されるであり、単独で歌われることの多いものである。 伝説の歌手、もこのアリアをとしており、現在出回っている彼女のベスト盤の多くにこのアリアが収められている。 は、この曲を参考に「」の主題曲を作曲した。 でのでがソロの演技で、の開会式での聖火の点火の場面、のでがフリーの演技でそれぞれこの曲をフィーチャーしたものを使用している。 の特急「」のうち、で運行される行の列車では、到着直前からこの曲のインストゥルメンタルが車内で流れる。 「長崎県スポーツ行進曲」にも、この曲が引用されている。 より長崎市、長崎国際観光コンベンション協会、マダム・バタフライ国際コンクールin長崎が主催となって開催されている、マダム・バタフライ国際コンクールin長崎にて、ソプラノの共通課題曲になっている(テノールの共通課題曲は「さらば愛の巣」)。 「可愛がってくださいね」 第一幕で蝶々さんとピンカートンが歌う。 旋律とハーモニーの美しさで有名。 「さらば愛の巣」 ピンカートンのアリアの中で最も有名。 「さよなら坊や」(かわいい坊や) 最後のアリア。 引用された曲 [ ] 当時のの流行も反映してかプッチーニは日本の音楽を収集し、使用している。 そのため、同時期に作られた「」などよりは、はるかに日本的情緒のある作品に高めており、今日、日本人に好まれるオペラの一つにしている要因となっている。 この「引用、転用」は後に「」でも行われる。 「()」• 「」 蝶々夫人を演じた日本人 [ ] 三浦環。 1916年 から初期にかけて活躍したソプラノ歌手のは、この蝶々夫人役を得意とし、その生涯において世界各地で数多く蝶々夫人役を演じた。 1915年に初の日本人による蝶々夫人役としてロンドンのオペラハウスで演じたのを皮切りに、約20年間暮らした海外だけでも2000回以上公演した。 現在でも長崎のにはその功績を称える三浦の像がある。 この他、ヨーロッパの各歌劇場にて200回以上もこのオペラを主演) らがいる。 では、(29年)にが監督として、とリッツオーリ・フィルム=ガローネ・プロの日伊合作が製作された。 『蝶々夫人』のタイトルロールを当時在団中でだったが演じ(吹き替えはオリエッタ・モスクッチが担当。 )、日本だけでなくイタリアでも大評判をとった。 「蝶々さん」は誰か? [ ] 揚羽蝶 「蝶々夫人」の舞台となった日本では長らく「『蝶々夫人』のモデルは誰か?」ということが議論されてきた。 ロングの実姉サラ・ジェニー・コレルは、1890年代初頭から五代目校長で宣教師でもあった夫とともに長崎の東山手に住んでいた。 ロングは、姉のコレル夫人から聞いた話から着想を得て、小説を執筆したとされている。 長年、有力視されていたのは、に活躍した商人の妻、である。 これは彼女が長崎の武士の出身であることや、「蝶」の紋付をこのんで着用し「蝶々さん」と呼ばれたことに由来する。 長崎のが長崎湾を見下ろす南山手の丘の上にあることも、物語の設定と一致する。 しかし、ロングの小説で具体的に記述されている蝶々夫人の経歴に、ツルの生涯と似ている部分があるが、重要部分で異なる点も多いため、モデルと考えるのは不自然との意見もある。 一方、グラバーとツルの間に生まれた長男のがに留学していたこと、ロング本人が、「姉は倉場富三郎に会ったことがある」と語ったと言われることなどは、「蝶々夫人=グラバー・ツル」説を裏付ける要素とされている。 ただし、ロングは小説が実話に基づくとは明言しておらず、また、彼自身がアメリカを貶めているともとれる小説の人物設定について多くの批判を受けていたこともあり、真相は曖昧にされたまま現在に至る。 ツルが最初の結婚でもうけた娘・センの子孫の調査によると、ロングの小説『マダム・バタフライ』に登場する家がグラバー邸内と酷似していることと、ロングがのちに書いた戯曲『マダム・バタフライ その20年後』の原稿に「Dam. Too-ri」とメモがあり、ツルと読めることから、ロングはツルを下敷きにしていたと思われるが、内容自体はツルの経歴とは異なり、創作である。 当時の長崎では、()として、日本に駐在する外国人の軍人や商人と婚姻し、現地妻となった女性が多く存在していた。 また19世紀初めに出島に駐在したドイツ人医師のにも、日本人妻がいた。 下級の軍人がなどの売春宿などに通って欲望を発散する一方、金銭的に余裕がある高級将校などは居宅に女性と暮らしていた。 この際の婚姻届は、鎖国から開国にいたる混乱期の日本で、長崎居留の外国人と日本人女性との同居による問題発生を管理したいが公認しており、飽くまでも一時的なものだった。 相手の女性も農家から長崎の外国人居留地に出稼ぎに来ていた娘であり、生活のために洋妾になったのである。 互いに割り切った関係であり、この物語のように外国人男性との関係が真実の恋愛であった例は稀である。 現に、シーボルトの日本人妻だったは、シーボルトの帰国後に婚姻・離婚を繰り返している。 まして、夫に裏切られて自殺をした女性の記録は皆無であり、蝶々夫人に特別なモデルはいない創作上の人物であると考える説も有力である。 批判 [ ] 主義時代のに基づいたストーリーを未だに演じることへの批判や反論は国内外問わず根強くあり、2007年には、の音楽教授でプッチーニの専門家、ロジャー・パーカーが的であるとして批判した。 バレエ [ ] 2019年、が9月27日~29日と10月10日~14日大ホールで『マダム・バタフライ』と題してバレエ公演を行なった。 演出・振付・台本=• 音楽=、• 舞台美術=ダニエル・オストリング• 衣装デザイン=• 照明デザイン=足立恒• 音楽監督・指揮=井田勝大• 演奏=• 編曲=横山和也• 演出・振付補佐= トリビア [ ] 漫画・アニメ『』に登場するキャラクター「お蝶夫人」は「蝶々夫人」の別の邦訳名であるが、このキャラクターは元来の「蝶々夫人」とまったく関係がない。 むしろ性格、境遇設定などは正反対でさえある。 が2000年より刊行した小説シリーズ『無限カノン三部作』は、主人公の青年カヲルが蝶々とピンカートンの末裔という設定の恋愛小説で、カヲルのルーツとなる蝶々らの物語は主に第1作『彗星の住人』で描かれた。 派生する作品として、カヲルの祖父にあたる蝶々の遺児、ベンジャミン・ピンカートン・ジュニア(ニックネーム "ジュニア・バタフライ"、略称 J. B)の母との死別・米国へ引き取られてからの半生を・をまじえて描いたオペラ『 ジュニア・バタフライ』が、ストーリー・、作曲・らの手によって製作された。 4月初演時の主な出演者は J. B 、 ナオミ、J. Bの恋人 ら。 なお、『ジュニア〜』はから9日まで・トッレ・デル・ラーゴ野外大劇場にて開催されたでも佐野・J. B-ナオミ・佐藤のコンビで上演され現地でも絶賛された。 脚注 [ ] []• 『時の光の中で』浅利慶太、文春文庫、2009年1月10日、p215• 日経ビジネス、2009年11月13日• - Kバレエカンパニー 関連項目 [ ]• (ミュージカル)• 戯曲 映画• 外部リンク [ ]• (米国のサイト).

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東京二期会《蝶々夫人》 宮本亜門 2019年10月6日(土)感想

二期会 蝶々 夫人

東京二期会《蝶々夫人》 宮本亜門 2019年10月6日(土)感想 東京二期会《蝶々夫人》 宮本亜門 10月6日(日)2:00PM 東京文化会館大ホール 東京二期会《蝶々夫人》 10月6日(日)2:00PM 東京文化会館大ホール 指揮:アンドレア・バッティストーニ 演出:宮本亜門 蝶々夫人:大村博美 スズキ:花房英里子 ケート:田崎美香 ピンカートン:小原啓楼 シャープレス:久保和範 ゴロー:高田正人 ヤマドリ:大川 博 ボンゾ:三戸大久 役人:白岩 洵 青年:牧田哲也 合 唱: 二期会合唱団 管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団 ザクセン州立歌劇場、デンマーク王立歌劇場、サンフランシスコ歌劇場との共同制作による、宮本亜門演出の新プロダクション。 宮本亜門さんのミュージカルは《アイ・ガット・マーマン》から時々見ていますが、不快な演出が多い。 「小賢しい」と言うのかな。 特に大好きなミュージカルを恨みは大きい。 ということで、宮本さんのオペラ演出を見るのは初めてです。 東京二期会にはTVで放映された栗山昌良さんのこの上なく美しい演出があるのですが、いつまでも同じ演出では新しい観客層を切り開けないのでしょうか。 各幕の前に黙劇が演じられます。 蝶々さんの自決から30年後、ピンカートンは臨終の床にいます。 そして(蝶々さんとの)息子に遺書を託します。 その遺書を読んだ息子は30年前の長崎にワープします。 この息子はずっと舞台にいて、蝶々さんの悲劇を見ています。 2000年5月6日にでゼンタが2人出てきたのにはビックリしましたが、今となっては何十年も使い古された、ありふれた手法でしょうか。 もっとも息子は大した動きをするわけではなく、オペラは普通に上演されますので、その存在が邪魔になることはありません。 まあ、率直に言って、居なくてもいいわけです。 舞台には小さい部屋(手動で動く)が1つあるだけで、あとはカーテンと照明で良く雰囲気を出していたと思います。 プログラムによれば、高田 賢三さんの衣装がもう一つの売り物らしいけれど、全くの無駄遣い。 僕は衣装を見たくてオペラに行くわけではないからね。 ちょっと蝶々さんの露出度が高かったかな? 大村博美さんは声が太く、15歳の蝶々さんには不向きだと思いました。 2幕以降は良かったでしょうか。 バッティストー二の指揮は元気が良かった。 さて、ピンカートンが「いつか正式な結婚式を挙げる日に乾杯、アメリカ人の花嫁と!」と不実なこと極まりない歌を歌ったあと、蝶々さんの身の上を心配しているシャープレスはどのような態度を取ったら良いのでしょうか? METのミンゲラ演出では、そしてでは、シャープレスは手にしたウィスキーを投げ捨て、彼の不快感を示しています。 では本日の宮本演出では、どうなっていたでしょう? 二人はもともと(台本と異なり)ウィスキーを持っていないのですが、シャープレスはピンカートンを祝福するように握手するんですよ。 こういう時に、宮本さんはこの場面の意味が分かっていない演出家なのだな、と思うんですよ。 シャープレスは二重人格なのでしょうか? 「ある晴れた日に」は、ピンカートンが帰って来ないことを心配するスズキに対して「信じていないのね、聞いて」と歌い始める、スズキに向けて歌われるアリアです。 それなのに宮本演出では蝶々さんは突然梯子で家の屋根(?)に上がり、手すりも何もないところで歌うのです。 難曲として知られる「ある晴れた日に」を歌う歌手に無駄なストレスを与える、演出家として赦されるべきことではないと思います。 宮本さんがこれが受けると思っているのなら、困ったものです。 ヤマドリはたくさん勲章の付いた立派な軍服で現れ、偉い軍人みたいです。 僕は別にお大尽でも軍人でも良いけれど、ヤマドリが持つコミカルな部分が無くなってしまいました。 しかし何より驚いたのは部下が持つ旭日旗。 韓国は東京オリンピック2020で旭日旗の不使用をIOCに訴えたそうですが、韓国人客役の役者が登場し、旭日旗に飛びかかる趣向かと思いましたよ。 でその手は使われていましたからね。 スキャンダラスな舞台を造って、それで有名になり、次の仕事が来るというのは最近の演出家のよく使う手だとは聞きますが、そのための旭日旗なのでしょうか? 第3幕、ピンカートンが傷痍軍人だという設定は、2013年9月16日にあいちで見たことがありますが、まあ、意味不明ですね。 蝶々さんが自害をするところで青年が子供を押し出す。 青年が大きく動いたのはこの場面だけでしょうか。 これが宮本亜門にとって、最も重要な場面だったのでしょう。 スズキに任せておけばいい場面なんですがね。 最後に蝶々さん自害の場は演じられませんでした。 代わりに、奥の幕の間から蝶々さんが現れ、舞台に伸びる光の道を歩いてきます。 すると途中から元気なピンカートンが現れ、二人は抱き合いながら奥に進んだところで幕となりました。 「僕は蝶々さんの最後の希望が叶えられた」という演出なのか?と見ていましたが、プログラムを読んでいたら宮本さんは「ピンカートンが本当に愛していたのは蝶々さん」だと言っています。 それは宮本さんの読解能力に問題があるでしょう。 僕が思い出したのは長野冬季オリンピックの閉会式で、「ある晴れた日に」と共に伊藤みどりさんがせり上がったところ。 この演出をした浅利慶太さんによると「日本とアメリカの友好を表現した」とか。 このオペラは浮気者のアメリカ人に捨てられた日本女性の悲劇でしょう? この人がミラノスカラ座で《蝶々夫人》を演出したとは、とても信じられませんでした。 浅利慶太さんといい宮本亜門さんといい、ミュージカルの演出家にオペラは無理でなのでしょうか。 バックボーンが違うから。 二期会にも、次回は栗山昌良さんの演出の《蝶々夫人》をお願いしたい。 ミュージカルといえば、プログラムに《ミス・サイゴン》と《RENT》が取り上げられていたのは嬉しかった。 どちらも素晴らしい作品だから、ぜひ見ていただきたいものです。

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オペラ《蝶々夫人》がもとになったミュージカル『ミス・サイゴン』とその音楽|音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」

二期会 蝶々 夫人

二期会Twitterより もう十数回目の『蝶々夫人』。 それでも眼鏡とマスクの裏は、 涙と鼻水でぐしょぐしょ。 一幕最後の蝶々さんとピンカートンの二重唱は、宇宙を思わせる星空をバックに、指揮者バッティストーニが両腕を全開して「たっぷりと」と指示したとおりの、絶唱でした。 サウナに入ったように逆上(のぼ)せて、おかげで風邪も癒ってしまった。 大村博美の蝶々さんはOK. 小原啓楼のピンカートンも声はOK, 動きもまずまずでした。 (前回二期会のピンカートンは、歩き方がゾロリとしていて、そば屋の出前のようだった。 戦後進駐軍の「アメリカさん」たちを見ているボクには違和感があった。 二人、三人で歩いていても歩調が揃い、足はスラリと伸びている。 海軍はエリートであり、叩き込まれた規律と気品が歩き方に自然ににじみ出ていた。 ) 序曲や三幕の前の間奏曲のところで、臨終近いピンカートンと息子が出てくるのは、なるほどと思った。 (ここは演出家の腕の見せ所。 ただの序曲、間奏曲では聴衆が退屈してしまう。 )とはいえ、あきらかに貧困層むきの病室、息子の身なりもリッチには見えないので、ボクの気持ちの整理がつかない。 オペラ・ゼミでは「蝶々さんは息子を手放した方がよいか、お金をもらって自分で育てる方がよいか」とディスカッションするのが通例。 将来息子がハーバード大学に進学する可能性もあるから、手放すのがよい、というような意見が強かった。 この舞台をみると、混血として差別されたり、ピンカートンが傷痍軍人となったりしているらしく、手放してよかったのかどうか釈然としない。 (なお怪我のためにピンカートンに生殖能力がなくなったため、ケート夫人が無理にも息子を引き取りたいと願う、という設定であるなら、説得力は増す。 ) 字幕にも、気遣いが現れていた。 蝶々さんが「Siete alte, forte,」(あなたは背が高く、強い)と歌うところは、あいまいにぼかしてある。 ボクは「やっぱりね。 女性は大きくて強い奴に惚れるんだ、ガイジンは有利だよなあ」とか思ってしまうところ。 そういう雑念、脱線を誘う箇所は、上手に剪定してある。 あれこれジェンダーとか異文化とかを考えさせず、蝶々さんとピンカートンの愛に収斂するように仕立ててあるようにみえる。 (ジェンダー、異文化交流などについては、小川さくえ『オリエンタリズムとジェンダー』法政大学出版局、赤司英一郎「〈蝶々夫人〉のなかの突破のモチーフ」東京学芸大学紀要、に卓見が見られる。 )とはいえ、ヤマドリが陸軍大将のような出で立ちで、旭日旗をしたがえて出てくるところは、「どっちもどっち」と言っているようにしか思えない。 つまりは米帝と日帝で、戦時中の慰安婦問題から、戦後の企業戦士のフィリピンやミャンマーでの現地妻の実態まで、連想させずには措かない。 橘玲(たちばな・あきら)は週刊文春で、「50歳時点で一度も結婚したことのない割合は、2015年時点の調査で、女性14. 1%に対して男性はほぼ倍の23. 4%です。 (…)つまり結婚と離婚を繰り返すことで、一部の男が複数の女と結婚しているからです。 先進国はどこも法的には一夫一妻制ですが、その実態は〈時間差の一夫多妻制〉なのです」(週刊文春2019年9月5日号)と書いている。 時間差だけでなく、地域差の一夫多妻制も成立しそうだ。 橘玲式に言えば、遺伝子genを残すためには、「カネのある男」は時をまたぎ、距離をまたいで、せっせと子孫を残すわけだ。 橘玲の、なるほどと思わされる他の記事も多数目にしている。 (でも、実際はどうだろうか。 バッハ一族のように音楽家を多数輩出しているファミリーもあるけれども。 クリムトの16人の子供はどうなっているのか。 カストロの膨大な子供は何をしているのか。 )さて橘玲は、 愛という現象をどう説明するのか。 無知蒙昧な旧世代の錯覚にすぎないのか。 遺伝子一元論にしたがえば、結婚も長期契約売春および育児契約ということになる。 第一幕末尾の絶唱も、砂漠のサソリのダンスと同じになってしまう。 亜門演出の最後は、死後の蝶々さんとピンカートンが手に手を取って昇天(?)する。 これはこれで、現代のあれこれの苦い解釈を飛び越える、救いのある終り方であるように思う。 (2019年10月6日、東京文化会館) 追記:なお上記橘玲の記事のテーマは、「大きく黒い犬の問題」である。 内閣府の発表によれば「40~64歳のひきこもり状態のひとが全国に61万3000人いる」、その3/4は男性。 就職氷河期の産物でもある。 財力も権力もない「非モテ」の男性たちは「インセル(Incel)」と呼ばれる(「Involuntary celibate(非自発的禁欲)」の略)。 引き取り手のない「大きく黒い犬」は殺処分されるしかない。 人間の場合、殺処分される前に、包丁をもって大量殺人に走るケースがあるわけだ。 追記2:『蝶々夫人』を2000回歌った三浦環は、楽屋を訪れたプッチーニに抱擁されたという。 その環も、昭和16年の真珠湾攻撃以降、『蝶々夫人』が上演禁止になった(まあ、もっともといえば、もっともである)ため、蝶々さんを歌うことはなかった。 ( 萩谷由貴子著:『蝶々夫人』と日露戦争。 必読書である!).

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