紺碧 の 空 誕生 秘話。 紺碧の空【応援歌】古関裕而の作曲は実話で実在?

慶応「若き血」早稲田「紺碧の空」誕生秘話 (2020年4月19日)

紺碧 の 空 誕生 秘話

【ネット裏・越智正典】ことしは慶応の応援歌「若き血」がデビューしてから93年、早稲田の「紺碧の空」誕生89年である。 昭和2年6月、委員長に小泉信三が就任して、早稲田の校歌「都の西北」を歌いまかそうと、三田に新応援歌制定委員会が発足した。 が、これだ! という歌が出来ない。 学生委員が文学部長川合貞一、音楽史の野村光一に相談した。 野村が断言した。 「作れるのは堀内敬三さんしかいません」 堀内敬三は浅田飴本舗の創業者、堀内伊太郎の三男で、ミシガン大学機械科からマサチューセッツ工科大学に進学したが音楽の魅力につかまった。 合唱団にも入った。 帰国後、頼まれて愛宕山時代のNHKの「西洋音楽」担当の嘱託になっていた。 「予科会を代表して参りました」。 堀内が纐纈(こうけつ)忠行、矢部勝昌、山田有三の真剣な願いに肯いたのは11月5日予定(当日は雨、翌6日快晴)の早慶1回戦の18日前のことだった。 歌詞は繰り返して歌えるように一番だけにした。 曲は歌いやすいように2拍子(都の西北は4拍子)。 纐纈らが塾内を走った。 幼稚舎、普通部、商工学校では、授業の音楽の時間に若き血を教えた。 昭和2年11月6日「若き血」は神宮球場でデビューした。 慶応は早稲田を6対0で破った。 2回戦も3対0。 新聞は書いた。 「天も裂けよ、地も砕けよとばかり 慶応の歌つぶて」 早稲田は腰を抜かさんばかりに驚いた。 それまでそれ行け! と木刀を振りかざすのが応援団長で団長が何人もいた。 爆裂団長と名乗る男もいた。 これでは慶応に勝てないと全学部の組委員が新応援団を結成。 昭和6年4月22日に総会を開いて団長に後輩思いの溝口五郎を選出。 万事悠然としている幡野博一を顧問に迎えた。 新応援歌を作ることになった。 カネがないので歌詞は学内募集に決まった。 高等師範部国漢科本科(文学部)3年住治男(東京府立四中)の「紺碧の空」が当選(文学部講師西条八十選)。 住は母一人子ひとり。 <家に入れば除夜の灯火母ひとり>とよんでいるが、からだが弱く、投げ打ち、走る、友だちが好きだった。 卒業、岩波書店に就職したが胸を病み、昭和13年に療養所で逝く。 作曲を頼むのにはカネがいる。 会計係、のちに拍手の名リーダーになる伊藤戊(安積中)が「心配ないよ。 古関勇治(本名)という男が東京に来ている。 きっと引き受けてくれる」。 世田谷の家に頼みに行った。 同行した新応援団の男たちは後年「古関さんの家の玄関にハーモニカがあった」「いやオルガンだった」と回想しているが、そうだったとしたら、ハーモニカではなかったかと思える。 県立福島商業卒業後、福島ハーモニカソサイティーに入会。 編曲に恵念。 ふるさとを忘れなかった。 =敬称略=(スポーツジャーナリスト).

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✅ 「紺碧の空」早大卒業生が注目 朝ドラ・エール、誕生経過描く

紺碧 の 空 誕生 秘話

本物の「紺碧の空」の誕生エピソードはどのようなものだったのでしょう。 早慶戦をもとに東京六大学野球連盟が発足 古関裕而作曲の 「紺碧の空」の誕生を語るうえで、欠かせないのが、 1903年に初開催された「早慶戦」です。 早慶戦は文字通り早稲田大学と慶応義塾大学の戦いで、当時 「野球界の頂点対決」として人気を博し、日本国民を巻きこんで盛りあがった対戦カードです。 しかし、しだいに学生同士の応援が過熱し、衝突をもたらしてしまうなど、継続することは危険と判断され、わずか3年で中断されました。 早稲田・慶応ともに全校をあげて、よほどの熱の入れ具合だったのですね。 中断後も早慶戦の復活のための仲裁がつづけられていましたが、慶応側が受け入れをかたくなに拒否。 早慶戦は中断したものの、1914年には早稲田、慶応、明治大学の三大学連盟が結成され、1917年に法政大学1923年に立教大学、そして1925年に東京帝国大学(現東京大学)が加入し、 現在の東京六大学野球連盟が正式に発足することになりました。 東京六大学野球連盟の発足により、これまで拒み続けていた慶応も折れ、1925年にようやく早慶戦が復活します。 復活までに19年という長い期間を要しました。 早稲田大学の連敗 待望の復活をなしとげ、互いを最大のライバルとする早慶戦では、1927年から1930年は慶応が一方的に勝ち続けている状況が続いていました。 早慶戦の結果が大学内の雰囲気を左右するなど、敗戦の影響力はおおきく、早稲田は一刻もはやくこの状況を打破する必要がありました。 そこで目を付けたのが、 慶応の応援歌「若き血」です。 慶応の勢いは、この「若き血」が応援歌として発表されたころから加速していて、野球部を何倍にもパワーアップさせていました。 「若き血」に対抗するような力のある応援歌が必要だとさとった早稲田大学の応援部は、学内で応援歌を募集し、審査は 詩人で作詞家の西條八十(さいじょうやそ)にまかせました。 早稲田大学高等師範部(現在の教育学部の前身)に在学していた学生 西城八十からは「一字一句も直すところなし」と言わしめたほどの完璧な歌詞でした。 紺碧の空 住治男作詞 1 紺碧の空仰ぐ日輪 光輝あまねき伝統のもと すぐりし精悦闘志は燃えて 理想の王座を占むるものわれ等 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田 2 青春の時 望む栄光 威力敵泣き精華の誇 見よこの陣頭歓喜あふれて 理想の王座を占むる者われ等 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田 古関裕而へ作曲の依頼が届く 闘魂を奮い立たせるような歌詞が選出されたものの、作曲者が決まらずにいました。 それもそのはず、あの「若き血」に勝るような強烈なメロディーを作れるものはそうそういません。 この詩を選出した西城八十は、「素晴らしい詩だが、作曲は困難になるだろう。 山田耕筰や中山晋平のような大物にたのまなくてはだめだ」といっていたほどです。 大物にたのむといえど、それほどの予算もありません。 その時の応援部には、古関裕而と同郷の 歌手の伊藤久男のいとこの伊藤戊が所属していました。 突然おしかけたかと思えば、「この度は応援歌の作曲を引き受けていただきありがとうございます!」と大声でお礼を言い、裕一を胴上げしはじめます。 実はこの裏には、 佐藤久志(山崎育三郎)の手まわしがありました。 早慶戦で11連敗という危機におちいっていた野球部を救うべく、打倒慶応をかかげた応援部は、慶応の応援歌「若き血」を凌駕する応援歌をつくることを決断します。 歌詞は学内で募集した「紺碧の空」に決定しましたが、作曲を依頼する人物が決まらずにいたところ、団長の田中が若く将来のある作曲家に頼みたいと言いだします。 そのとき、部員の一人である 佐藤幸太郎(斎藤嘉樹)が、いとこの佐藤久志に作曲の話を相談しようと手をあげたのです。 幸太郎から応援歌の作曲の話を聞いて久志の頭にうかんだのは、同郷の作曲家である裕一の顔でした。 久志は、まずは裕一の妻、 音(二階堂ふみ)に事のいきさつを話します。 音もどうすればよいのか悩みました。 久志が音に相談したことで、裕一が作曲を承諾してくれたと勘違いしてしまった応援部が、感極まり古山家まで押し掛けたというわけだったのです。 一旦は作曲を断るものの、ライバル慶応の応援歌「若き血」を作曲したのが、憧れの 小山田耕三(志村けん)だということを知り、耕三とおなじ土俵にたつべく作曲を引きうけます。 作曲を引きうけたあとで、曲が作れずに行き詰ってしまった裕一をのこし、音は実家のある豊橋に帰ってしまいます。 音がはなれてしまってから裕一は、むかしは音のために曲を作っていたことを思い出しました。 誰かのために曲を作ることにもう一度目ざめた裕一は、 それまでのスランプを取りかえすかのように「紺碧の空」を仕上げていくのでした。 以上のようなストーリーが朝ドラエールの「紺碧の空」の誕生秘話となります。 こうしてみるとドラマのストーリーも、早慶戦が絡んでくるところや、「紺碧の空」の作曲に苦労した話など、実話に近い形でかかれていますね。 早稲田大学の主要応援部員も、それぞれモデルとなった実在人物がいますし、かなりの再現度といえるでしょう。 主要応援部員のモデル 田中隆(三浦貴大):高山三夫(早稲田大学応援部員) 佐藤幸太郎(斎藤嘉樹):伊藤戊(伊藤久男のいとこ) 残念ながら、古関裕而が実際に何に苦労し「紺碧の空」を仕上げるのに時間がかかったのかなど、書籍や資料などには明確に記載されていないので比較することができません。 朝ドラでは、その明らかにされていない部分をドラマチックに仕上げてストーリーとしているのだと思われます。 おわりに 古関裕而が作曲した「紺碧の空」の誕生ストーリーには、早慶戦の歴史や、古関裕而の作曲家としての挑戦がありました。 「紺碧の空」は古関裕而を日本を代表するスポーツ音楽の作曲家として知らしめる代表作となったのですね。 朝ドラのエールでも、実話にかなり忠実なストーリーになっていることが分かりましたね。 古関裕而の残した名曲は「紺碧の空」以降どんどん出てくるので、朝ドラでどのように描かれるか楽しみにしています。 エールファンにおすすめ!.

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【エール】裕一が紺碧の空を作曲できた理由や経緯は?鏑木智彦(奥野瑛太)の言葉についても

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古関がモデルのNHK連続テレビ小説「エール」では18~22日に誕生の経過が描かれる. 「早大生なら誰でも歌える『早稲田の魂』だ」。 同市の早大卒業生たちは「覇者 覇者 早稲田」と口ずさみ、朝ドラに注目している. 「入学後に『紺碧の空』を歌い、初めて早大生になったと実感した」と振り返るのは早大卒業生でつくる「福島稲門会」の新開文雄会長(68)=新開法律事務所. 今も同窓会などで歌っているといい「朝ドラを機に古関さんが再評価されることを願う」と語る. 同会顧問で元福島市長の瀬戸孝則さん(72)は「学生時代を振り返ると頭の中で『紺碧の空』が流れる」と振り返る. 市長時代の2009(平成21)年、古関生誕100年の記念事業に力を入れた。 「朝ドラ放映は、古関さんから福島へのまさに『エール』だ」と力を込めた. 東京六大学の野球リーグ戦が復活した1946年、紺碧の空の完成から15年後に、古関は早大のライバル慶応大応援団の依頼で慶大の応援歌「我ぞ覇者」も作曲した. 慶大出身者でつくる「福島三田会」の内池浩会長(76)=内池醸造会長=は「早慶戦で歌った記憶がある. 古関メロディーを通して福島が盛り上がればいいね」と語った。 【紺碧(こんぺき)の空】 古関裕而が日本コロムビアに入社した翌年の1931(昭和6)年、早稲田大の応援歌として作曲した. 東京六大学野球で、ライバルの慶応大に負け続きだった早大応援部が新しい応援歌で劣勢を打開しようと依頼した. 作曲者を選ぶ際、古関を推薦したのが本宮市出身の歌手伊藤久男のいとこの応援部幹部だった. 新しい応援歌のおかげか早大が優勝し、歌い継がれるようになった.

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