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映画評『翼よ!あれが巴里の灯だ』リンドバーグの大西洋単独飛行の自伝を映画化!

翼よあれが巴里の灯だ

生涯 [ ] 生い立ち [ ] の息子としてで生まれ、で成長した。 父()は、その後のとなりへのアメリカの参戦に反対した。 母エヴァンジェリン( Evangeline Lodge Land Lindbergh)はだった。 リンドバーグは幼少時から機械への関心を示したが、にはから離れ、でとの訓練に参加したあとJN-4「ジェニー」を買い、になった。 にはで飛行士として訓練を始めた。 訓練を一番の成績で終えにはなどの民間パイロットとして働いた。 大西洋単独無着陸飛行 [ ] 5時52分(出発時の現地時刻)、リンドバーグはスピリットオブセントルイス号(ライアンNYP)に4つと水筒2本分の水、1700リットルのガソリンを積んでニューヨーク・のぬかるんだルーズベルト飛行場 の滑走路を離陸。 途中、海面近くまで降りの海岸までの距離を聞こうと漁船に向かって叫んだが上手くいかなかった。 22時21分(到着時の現地時刻)、のに着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。 この時、リンドバーグは25歳であった。 飛行距離は5,810kmで飛行時間は 33時間29分30秒 [ ]だった。 これによりリンドバーグは、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるとその賞金25,000ドル、さらに世界的な名声を得た。 無着陸飛行を達成した際にル・ブルジェ空港へ押し寄せた観客の数は、空港に入り切らなかった分も含めて延べ75万人とも100万人ともいわれている。 [ ] スピリットオブセントルイス号は、リンドバーグの指示の下に特別にカスタマイズされた機体であった。 多量の()を積むべくの前方に燃料タンクを設置したため、座席からは直接前方が見えず、のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出す必要があった。 当時、無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なかったため、他のオルティーグ賞挑戦者のように大型の機材を用意できず、また機材そのものもリンドバーグが望んだベランカ社製品より性能の低いものにせざるを得なかったことから、前方視界を犠牲にして燃料の搭載量を増やすことで対処したのである。 さらにバックアップの操縦士を乗せることもできなかったため、パリまでの全行程を一人で操縦し続けるという過酷な飛行となった。 飛行中、リンドバーグは強い睡魔に襲われたが、これを克服してパリに到達した。 現在、この機体はに展示されている。 「リンドバーグが大西洋無着陸飛行に初めて成功した」と誤解されがちだが、単独でない大西洋無着陸飛行については、にとが達成している。 これは、からにかけての16時間でからへ1,890kmを飛行したものであった(その他の大西洋横断飛行については「」を参照)。 また、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされるが、この台詞は後世の脚色であり、リンドバーグはその時自分がパリに着いたことも分らなかったという。 実際に発した最初の言葉としては、「誰か英語を話せる人はいませんか?(この後英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねる)」であるという説と、「トイレはどこですか?」であるという説の2つがある。 いずれにせよ、「翼よ、あれがパリの灯だ!」の出所は " The Spirit of St. Louis"の和訳題であり、日本語では広く知られているが、英語圏ではこれに対応するよく知られた台詞は存在しない。 結婚と愛児誘拐事件 [ ] に駐大使 の次女と結婚した。 アンは夫の勧めでパイロットや士の技術を身につけ、乗務員として調査飛行に同行する。 後年、彼女はとなった。 夫妻はチャールズ・オーガスタス・ジュニア()、ジョン()、ランド()、アン()、スコット()およびリーヴェ()の6人の子供をもうけた。 1932年3月1日に1歳8か月の長男ジュニアが自宅からされ、現場には5万ドルを要求する手紙が残されていた。 10週間に及ぶ探索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、5月12日、ホープウェルで死んでいるのが見つかった()。 2年後にのリチャード・ハウプトマンが逮捕され、3年以上後に、殺人で告訴されたハウプトマンの裁判が始まった。 ハウプトマンは裁判の終了まで無罪を主張し、弁護のために大金を支払ったが、死刑判決が出され、1936年4月3日に死刑執行された。 この事件は当時のアメリカでセンセーショナルな報道をされ、リンドバーグのさえ取りざたされた。 11月、リンドバーグとの帽子屋ブリギッテ・ヘスハイマー( Brigitte Hesshaimer)の間に3人の非嫡出子が生まれていたことがテストによって証明された。 3人はそれぞれ・・にドイツで生まれた。 リンドバーグとヘスハイマーの関係はに始まり、彼の死まで継続された。 ヘスハイマーはに74歳で死去した。 リンドバーグ夫妻の北太平洋航路調査と来日 [ ] リンドバーグの還流ポンプ リンドバーグの大きな業績の一つとしての開発がある。 リンドバーグにはを患っている姉がおり、心臓病の治療法を開発したいという思いから生理学者の研究室を訪れた。 2人は意気投合し共同研究をおこない、に「カレル・リンドバーグポンプ」を開発。 これは今日の人工心臓に影響を与えている。 組織が体外で生き続るための生理学的条件についてはカレルの知識が、血液を連続して環流させるポンプ装置の発明についてはリンドバーグの工学知識が生かされた。 第二次世界大戦 [ ] 前夜、リンドバーグはの要請でに何度か旅行し、についての報告を行った。 にはから勲章を授与されたが、この授与は、ユダヤ人を差別する政策やなどの強権的な対外政策を進める政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受けた。 批判に対して、リンドバーグは「ドイツに対する過剰な非難である」と反論した。 ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した後、員であったリンドバーグはアメリカのとドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行った。 にはで演説し、ドイツと中立条約を結ぶべきと主張した。 リンドバーグはをとなえるアメリカ第一委員会( America First Committee)の主要なスポークスマンであり、1941年のでの演説では、アメリカを戦争に引きずり込もうとしている3大勢力はイギリス人ととルーズベルト政権であると述べた。 この発言にが反発し、大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除した。 1941年にが開始されると、リンドバーグは「参戦には反対だったが、開戦した以上は祖国への義務を果たしたい」として陸軍航空隊への復帰を試みたが、上記のようないきさつがあったためにその真意を疑われ、ルーズベルト大統領やとその補佐官らに拒否され復帰できなかった。 そのため、政府と航空会社()に対する民間の会社を通じて、アメリカ政府の戦争努力を援助した。 までに民間人として太平洋で50回の実働任務をこなしており、などの日本機とも何度か交戦している。 1944年には、日本占領下の(現在の)東部にあるの空域でアメリカ陸軍の第433空輸輸送団の支援任務中にの傘下の独立飛行第73中隊と交戦し、指揮官の島田三郎中尉機を撃墜した。 戦争におけるリンドバーグの撃墜数は生涯を通じてこの1機である。 この他、での長距離航法やでの離陸法の発展に貢献した。 また、連合国軍(アメリカと)による日本兵捕虜の虐殺・虐待をしばしば目撃し、その模様を日記に赤裸々に綴っていた。 その著書の中で、リンドバーグは「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋でも日本人に行ってきたのである。 」と記している。 一方で、リンドバーグは日本軍による捕虜のの痕跡を見たという証言も記し、その虐殺や虐待も非難した。 1945年5月、ドイツが降伏するとリンドバーグはすぐにドイツへ飛び、そのを訪問した。 これについて、開戦前はドイツ支持者だったリンドバーグは日記の中で強い嫌悪と怒りを記した。 余生 [ ] に大西洋単独無着陸飛行について書いた " The Spirit of St. Louis"(邦題『翼よ、あれがパリの灯だ』)を出版し、これにより、のを受賞した。 同書はに監督の手で映画化された(映画の邦題は『』で、原作にないフィクションも一部含まれている)。 には訪日し、を訪れた。 万博では、1931年にニューヨークから日本を経て中国まで飛行した際に使用した水上飛行機シリウス号が展示された。 リンドバーグは、シリウス号の操縦席に当時10歳の親王(第126代天皇)を乗せるという交流を行っている。 晩年は、妻のアン・モローと共にのに移り住んだ。 また、の保全に力を注ぐようになり、世界各地を回り、活動に参加、多額の資金を寄付した。 朝にマウイ島のキパフルにある別荘にてリンパ腫瘍が原因で72歳で死去した。 孫 [ ] 2002年5月2日、大西洋単独無着陸飛行75周年を記念して、孫のエリック・リンドバーグが「ニュー・スピリット・オブ・セントルイス号」で大西洋単独無着陸飛行を実行、無事成功した。 またエリックは民間宇宙開発競技会に出資している。 その他 [ ]• 「」の会員 である。 による作品の実質的な第1作『』は、彼による大西洋単独無着陸飛行を意識した作品である。 がに発売した楽曲「リンドバーグ」は、チャールズ・リンドバーグがモチーフになっている。 著作(日本語訳) [ ]• 『翼よ、あれがパリの灯だ』 訳、恒文社、1991。 旧版 『翼よ、あれがパリの灯だ』 旺文社文庫(上下) 1976。 他にも様々な版で刊行• 『リンドバーグ 第二次大戦日記』 訳、新潮社(2巻組)、1974• 『孤高の鷲 リンドバーグ 第二次大戦参戦記』 (上下)、2002• 『リンドバーグ 第二次大戦日記』 (上下)、2016 伝記など(日本語) [ ]• ジヨーヂ・ブキヤナン・フアイフ『リンドバーグ物語 孤独の荒鷲』日本飛行学校出版部訳 日本飛行学校出版部 1929• 広畑恒五郎『空の王者リンドバーグ』婦女界社 1931• ケニス・S. デイヴィス『英雄 チャールズ・リンドバーグ伝』訳 早川書房 1966• 『リンドバーグ 大西洋無着陸横断飛行の英雄』チャイルド本社 1984• 宝島編集部編『虹を追いかけて リンドバーグ』JICC出版局 1991• 岡高志『リトル・ウィング リンドバーグ・ストーリー』ソニー・マガジンズ文庫 1993• ジョイス・ミルトン『リンドバーグ チャールズとアンの物語』訳 筑摩書房(上下) 1994• 『リンドバーグ』チャイルド本社 1998 こども伝記ものがたり• アン・モロー・リンドバーグ『翼よ、北に』中村妙子訳、 2002• スコット・バーグ『リンドバーグ 空から来た男』訳 角川文庫(上下) 2002 映画 [ ]• 監督『』主演 1957 脚注 [ ]• ルーズベルト飛行場()は現存せず、その跡地はルーズベルトフィールドモール()というショッピングモールになっている。 マルゲリータ・ジャコーザ、ロベルト・モッタデリ、ジャンニ・モレッリ 訳:村田綾子『世界の特別な1日 未来に残したい100の報道写真』日経ナショナル ジオグラフィック社、2017年6月20日 第1版1刷、51頁より引用• Ibis Communications, Inc.. 2019年2月2日閲覧。 charleslindbergh. com.. 2019年2月2日閲覧。 2019年2月2日閲覧。 これに関しては、『第二次大戦航空史話』(中公文庫 1996年)に詳しい• 訳『リンドバーグ第二次大戦日記』(上下、新潮社、1974年)、改題し『孤高の鷲 リンドバーグ第二次大戦参戦記』(上下、学研M文庫、2002年)• ただし、リンドバーグの日記の日本語版ではその部分が削られている。 NHKニュース. 2019年5月27日. の2019年5月27日時点におけるアーカイブ。 2020年2月20日閲覧。 、音楽ナタリー、2018年7月11日 11:08。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 現代のロケット技術の開拓者の一人。 当時、先進的過ぎる発想で世間から嘲笑されていたゴダードに資金援助した。 (リンドバーグ) - 日本のロックバンド。 本稿のチャールズ・リンドバーグにちなんで命名。

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チャールズ・リンドバーグ

翼よあれが巴里の灯だ

映画そのものは素晴らしいです。 若い頃リアルタイムで見て感動しました。 スピリット・オブ・セントルイス号の翼幅が狭い(片翼1メートル近く)のも気にならず、美しい画面に吸い込まれてしまいました。 昔発売されたVHS(高価でした)を購入し後生大事に見てました。 DVDになって発売されたので即買ったのですが・・・・期待外れ、画質はVHSとあまり変わりなくというよりVHSをそのままDVDに焼き直したという感じで、画面も4:3でシネスコの大画面の迫力がありません。 VHSならこんなものだろうと思っていましたので、DVDに対する機体が大きすぎたのかも。 ガッカリです。 ぜひブルーレイのデジタルリマスター版で発売して欲しいものです。 今回「翼よ!あれが巴里の灯だ」を購入し、届いたその日に見ました。 感動ものです。 今までは、レンタルビデオで見てましたが、ここんとこマイナーなビデオのため、どのショップに行っても品切れ状態でした。 この映画の中で、監督は視聴者に何を訴えたかったのか??何を感じてほしいのか??が克明に感じ取れます。 若干27歳の若者が、「金も無い」「地位も無い」「信用も無い」中で、唯一あったのは、「自分にはやれる」という熱意だけだった。 私も一経営者として、自己への挑戦がなければ、自分の人生は乗り越えていけないような気がします。 達成感というのは、実行して初めて得るものである。 しかし達成するまでは苦難の連続である。 苦難を克服するには、その熱い気持ちしかない。 それらを感じ取れる一本でした。 リンドバーク ジェームズ・スチュワート の世界初の単葉機による単独大西洋横断飛行を描いた作品。 また、出発前の準備の描写にほぼ半分を費やしている点は流石に自伝ベースと言える。 後援者の獲得、資金・飛行機調達が非常に丹念に描かれており、偉業がリンドバーク一人の力ではなかった事が良く分かる。 ただし、リンドバークの動機が「セントルイス魂」なのか功名心なのか判然としない点がやや残念。 後半は飛行シーン。 前日の不眠もあって睡魔に襲われた事、当時の飛行機 エンジン の性能によって積載物を最小限に留めたにも関わらず北極圏近くで氷のために機体が重くなってしまった事、同じく北極圏によって磁気が狂いコンパス使用不能となって星をコンパス代りとするが針路を見失ってしまった事、偶然にもカモメに導かれる様に機体がアイルランドに向かっていた事などが描かれる。 特に、着陸時の神父のご加護がシャレている。 後は四方山話を。 リンドバークは邦題ともなっている有名な「翼よ! あれが巴里の灯だ」という台詞は吐かなかった由。 また、有名人となったリンドバークはその代償として息子を誘拐殺人されるという悲劇に見舞われた。 これを題材にしたのが、クリスティ「オリエント急行の殺人」である。 大変有名な映画である。 題名だけはかなり昔から聞いたことがあったが、全編を始めて観た。 おおよそ100分の長い映画であったが、かなり昔に作られた映画にしては退屈することなしに見られた。 話は飛行機と言うものは空を飛ぶようにはなっていたが、まだ、実用的な航空便ができる前のころであり、主人公はその飛行機の操縦の教官をしている長身の男リンドバーグである。 この主人公がいろいろ苦労してスポンサー探しから、飛行機の設計施工管理などかなりの細かい仕事までこなし、大変な苦労をして、その当時誰が一番早く大西洋を横断するかということを競っていたレースの一番乗りを目指すものである。 ライバルは次々に事故などでつぶれていく中、彼自身も万全とは言えない状況で挑戦を行うことになるのであるが、その前の晩、興奮してほとんど眠れず、飛行を迎えることになった。 ニューヨークからパリまでの40時間を一人で操縦士とナビゲーターを兼任するうえ、その間は今のようなレーダーシステムなどはなく、1つの世界地図と星・太陽及び磁石で方向を割り出すと言う全く無謀な飛行計画である。 飛行している間には、昔の思い出が蘇ったり、眠くなって寝てしまい落っこちそうになりはっと目を覚ましたりなど様々な困難を乗り越え、遂にパリまでたどり着くと言う映画である。 兎に角すべてが牧歌的な映画でもある。 今これをリメイクしたら、もっと人々の愛とか、嫉妬とか、欲望などを絡めた極めて複雑な映画になるであろうが、20世紀前半の古き良き時代という感じの映画であることが良いのかもしれない。 1927年、周囲の反対を押し切ってニューヨークからパリへ単葉機 Spirit of St. Louisで、人類初の大西洋単独横断飛行に成功したリンドバーグ。 これはその伝記映画。 名匠ビリー・ワイルダーがいつものブラックユーモアを抑え、正攻法の演出でリンドバーグの孤独で苦難の飛行をリアルタイムで描き出す。 困難と苦しみに耐えて自身の可能性の限界に挑戦する高貴な姿は観る者の胸を打たずにはおかない。 当時25歳のリンドバーグを47歳のジェームズ・ステュアートが演じるのは体力的にも無理があるような気もするが、彼の並々ならぬ熱意にワーナー・ブラザースが折れたと伝えられている。 それを証明するかのような白熱の名演技。 特に緊張から一睡もできずに迎えた早朝のルーズベルト飛行場。 ぬかるみの滑走路から離陸する際、電線を引っかけ、辛うじて森につっこむことなく上空に舞い上がっていくシーンには思わず涙が出る。 容赦なく襲う睡魔との闘い、寒さで凍り付く機体の墜落危機を乗り越えて、熱狂する群衆が待ち構える夜のパリに着陸するラストも感動的。 フランツ・ワックスマンの音楽も素晴らしい。 とにかく、名画なのに日本では扱いが粗末というかなんというか・・・ 原作を読んだ後見ると、実に上手く回想シーンとして原作に忠実なエピソードが満載です。 CGなんて夢にも出てこない時代、実機の図面を基にレプリカを3機も造ってしまい、 しかも、その原型になったライアン社製の(当時でも希少だった)郵便輸送機を、ジェームズ スチュアートが自費購入して操縦訓練をして機体特性に慣れた上で、自分で飛ばしている。 ジェームズ・スチュアートという人は、真面目でハッピー、ちょい田舎者、といった立ち位置 の役柄が多いのですが、この作品は本人の念願だったというだけあって気合が入っています。 元来が米国陸軍の爆撃機パイロットとして実戦経験も豊富という人ですが、実はパイロット 志望だったのはリンドバーグに憧れたから、ということで、年齢的にやや無理はあるものの 実機のレプリカを主演男優自らが操縦している(燃料タンクの後ろに操縦席があるために 前が全く見えない、半ばヤッツケ仕事で作った機体だったので安定も悪い)のが凄みです。 リージョン1で良ければDVDが出ています。 私はアマゾンUKで購入しましたが、日本でも 是非早急にDVD化してほしいものです。 (当方、DVDはPCで観るため、Thinkpadのマルチドライブはボーダレス対応(ワザワザ リージョン1用と2用を作り分ける方がコストがかかる)なので、国際的に流通している PC(Thinkpad以外だと、パナのレッツノート辺り?)なら見られる可能性が高いです。 ) この1957年製作の米映画は初めて見た時も感動したが、久しぶりに再見してまたしても涙した。 1927年の5月にニューヨークのルーズベルト飛行場を単葉単発機で飛び立ったアメリカの朴訥な青年が、大西洋を横断しておよそ33時間後にパリ郊外のル・ブルジュ空港に着陸するという冒険ヒコーキ野郎の物語であるが、まず「セントルイス魂」号という飛行機の名前(映画の原題でもある)が素晴らしい。 青年の野望を応援するセントルイスの実業家たちの心意気が見事にいい表わされている。 「翼よ! あれが巴里の灯だ」とは、なんと素晴らしい邦題であることか! 飛行中の回想シーンで主人公の人柄を鮮やかに浮き彫りにし、既に夜になったル・ブルジュ空港への決死の着陸で手に汗を握らせ、最後に主人公と傷だらけの「セントルイス魂」号を対面させ、「ル・ブルジュでは20万人が、帰国してからは200万人が彼を迎えた」というシンプルなナレーションで紙吹雪乱舞するブロードウエイの凱旋パレードをちらっと見せて、脱兎の如くフィルムを終えるビリー・ワイルダーのスマートでお洒落なこと!.

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翼よあれが巴里の灯だ

『翼よ!あれが巴里の灯だ』イントロダクション 1927年5月20日の早暁。 パイロットのリンドバーグは緊張で眠れずにいた。 なぜなら今日は、史上初の単独での大西洋横断飛行にチャレンジする日だったからだ。 ホテルの部屋の外では報道陣がタイプライターを打つ音がかしましい。 興奮と睡魔のなか、いくつものフラッシュバックが彼を襲う。 1923年のはじめての単独飛行、曲芸飛行団での日々、陸軍で飛行訓練も受けた。 また飛行教官として神父に飛行機の操縦法を教えたこともあった。 郵便機のパイロットとして濃い霧の中を飛んだことも。 大西洋横断飛行の企画の際、最初に専用飛行機の製作を依頼しようとしたコロンビア航空社とは取引は不調に終わった。 パイロットをリンドバーグのほかに立てようとしたからだ。 飛行機の製作はサンディエゴのライアン社に決まった。 資金援助はセントルイス商工会議所から取り付けた。 大西洋単独横断はリンドバーグだけの企画ではなかった。 誰が最初に飛び、成功させるか。 時間との競争でもあった。 ライアン社は大幅にスケジュールを前倒し、スピリット・オブ・セントルイス号を完成させる。 出発の前夜は雨だった。 滑走路は泥でぬかるんでいる。 離陸の際に泥でスピードが乗らなければ、滑走路の先の林に期待ごと突っ込んでしまう。 だがリンドバーグは出発を決意した。 時に1927年5月20日、ニューヨークのルーズベルト飛行場を、パリのル・ブルジェ空港に向けて、25歳の若者リンドバーグを乗せたスピリット・オブ・セントルイス号は飛び立ったのだった・・・。 リンドバーグの大西洋単独飛行の自伝を映画化した『翼よ!あれが巴里の灯だ』 郵便機のパイロットだったリンドバーグが、1927年に行った世界初の大西洋単独横断飛行の自伝を、名匠ビリー・ワイルダーが映画化したのがこの『翼よ!あれが巴里の灯だ』。 この世界記録の樹立の際、リンドバーグが搭乗した単翼機の名前が、原題にもある「スピリット・オブ・セントルイス」号。 映画の製作にあたり、撮影用としてスピリット・オブ・セントルイス号の複製は3機製作されたそうだけれども、劇中でのスピリット・オブ・セントルイス号製造シーンを見ると、「へえッ」と感嘆する。 よく写真で見るスピリット・オブ・セントルイス号は全体が銀色にきらめいているので、機体すべて金属製なのかと勝手に思っていたのだが、違った。 言われてみればそうなのだけれども、この当時の飛行機は、まだ機体のほとんどが木製の骨組みに、キャンバス地を張ったものなのだ。 金属は機首のエンジン回りのカバーと、コックピット周辺のみで、胴体も翼も木製の骨格にキャンバス地、あの銀色はカンバス地に塗料を塗ったものだったのだ。 その原題にもなった「スピリット・オブ・セントルイス」、邦題になると『翼よ!あれが巴里の灯だ』となる。 ニューヨークのルーズベルト飛行場から約33時間のハードなフライトを経て、夜のパリにたどり着いたリンドバーグがこのセリフを言ったのだなと思って映画を観ていても、こんなセリフはちっともなかった(笑) この「翼よ!あれが巴里の灯だ」ということばは、リンドバーグの自伝を翻訳した翻訳家・佐藤亮一氏が邦訳版のタイトルに「翼よあれがパリの灯だ — 大西洋横断飛行の回想」と付けたものが元ネタだそうであるが、これは見事な邦訳タイトル。 劇中で闇夜にパリの街並みの明かりが浮かび上がるシーンで、日本人はみんなこのセリフを言ってしまうのではなかろうか(笑) こちらの作品もどうぞ!.

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