いづれ の 御 時に か。 『源氏物語』の現代語訳:桐壺1

#4 いづれの御時にか 赤の愛慕

いづれ の 御 時に か

スポンサーリンク 紫式部が平安時代中期(10世紀末頃)に書いた 『源氏物語(げんじものがたり)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。 『源氏物語』は大勢の女性と逢瀬を重ねた貴族・光源氏を主人公に据え、平安王朝の宮廷内部における恋愛と栄華、文化、無常を情感豊かに書いた長編小説(全54帖)です。 『源氏物語』の文章は、光源氏と紫の上に仕えた女房が『問わず語り』したものを、別の若い女房が記述編纂したという建前で書かれており、日本初の本格的な女流文学でもあります。 『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。 紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。 参考文献 『源氏物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),玉上琢弥『源氏物語 全10巻』(角川ソフィア文庫),与謝野晶子『全訳・源氏物語 1~5』(角川文庫)• 『源氏物語』の現代語訳:桐壺1(現在位置) [古文・原文] いづれの御時(おおんとき)にか、 女御・更衣(にょうご・こうい)あまた侍ひ給ひ(さぶらいたまい)けるなかに、 いとやむごとなき際(きわ)にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。 はじめより我はと思ひ上がり給へる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉み(そねみ)給ふ。 同じほど、それより下臈(げろう)の更衣たちは、 まして安からず、朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、 いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ(はばからせ)給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。 上達部・上人(かんだちめ・うえびと)なども、 あいなく目を側めつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。 唐土(もろこし)にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、 楊貴妃の例も、引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ。 父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人の由(よし)あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ花やかなる御方がたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなし給ひけれど、とりたててはかばかしき後見(うしろみ)しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。 [現代語訳] どの帝の御世であったか、女御や更衣が大勢お仕えなさっていた中に、たいして高貴な身分ではない方で、きわだって帝の寵愛を集めていらっしゃる人があった。 入内(じゅだい)した初めから、自分こそはと気位の高い女御の方々は、分不相応な者だと見くだしたり嫉んだりなさっている。 同じ身分やその方より低い身分の更衣たちは、女御たち以上に心が穏やかではない。 朝晩のお仕えにつけても、周囲に不快な思いをさせて、嫉妬を受けることが積もり積もったせいであろうか、ひどく病気がちになってしまい、どこか心細げにして里に下がっていることが多いのを、帝はますますこの上なく不憫なことだとお思いになられて、誰の非難(寵愛する妃の悪口)をもお構いなさることがなく、後世の語り草になりそうなほどの扱いようである。 上達部・殿上人なども、その状況を横目で見ていて、とても眩しくて見ていられないほどの御寵愛ぶりである。 中国の唐でも、このようなことが原因となって、国が乱れ、悪くなったのだと、次第に国中でも困ったことだと言われるようになり、人々が持て余す悩みごとの種となって、(玄宗皇帝を魅了した)楊貴妃の例まで引き合いに出されそうになっていくので、非常にいたたまれないことが多くなっていくが、もったいないほどの帝のお気持ちに類例がないこと(自分を非常に大切にし愛してくれること)を頼みにして何とか宮仕え(後宮生活)をしていらっしゃるのである。 父親の大納言は亡くなって、母親の北の方が古い家柄の出身で教養のある趣味人なので、両親とも揃っていて、今現在の華やかな身分にある方々にも見劣りしない程度に、どのような儀式にも対処なさっていたが、これといったしっかりとした後見人(後ろ盾)がいないので、大事な儀式が行われる時には、やはり頼りとする人もなくて心細い様子である。 スポンサーリンク [古文・原文] 先の世にも御契り(おんちぎり)や深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子(おのこみこ)さへ生まれ給ひぬ。 いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌(おかたち)なり。 一の皇子(みこ)は右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲け(もうけ)の君と、世にもてかしづき聞(きこ)ゆれど、この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、 おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物(わたくしもの)に思ほしかしづき給ふこと限りなし。 初めよりおしなべての上宮仕へし給ふべき際にはあらざりき。 おぼえいとやむごとなく、上衆(じょうず)めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、 さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、先づ参う(まう)上らせ給ひ、ある時には大殿籠もり過ぐして、やがて侍らはせ給ひなど、あながちに御前(おまえ)去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれ給ひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。 人より先に参り給ひて、やむごとなき御思ひなべてならず、御子たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう、心苦しう思ひ聞えさせ給ひける。 かしこき御蔭をば頼み聞えながら、落としめ 疵(きず)を求め給ふ人は多く、わが身はか弱く、ものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。 御局(おつぼね)は桐壺(きりつぼ)なり。 あまたの御方がたを過ぎさせ給ひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くし給ふも、げにことわりと見えたり。 参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿(わたどの)のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなき事もあり。 またある時には、え避らぬ馬道(めどう)の戸を鎖(さ)しこめ、こなたかなた心を合はせて、 はしたなめわづらはせ給ふ時も多かり。 事にふれて、数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿(こうりょうでん)にもとより侍ひ給ふ更衣の曹司(ぞうし)を他に移させたまひて、上局(うえつぼね)に賜はす(たまわす)。 その恨み、ましてやらむ方なし。 [現代語訳] 前世でも深いお約束(縁)があったのだろうか。 この世にまたとないほどに美しい玉のように光り輝く男の御子までがお生まれになった。 早く早くと待ち遠しくお思いになられて、急いで宮中に参内させて御子を御覧あそばすと、類稀な若宮のお顔だちの良さである。 第一皇子は、右大臣の娘の女御がお生みになった方で、後見がしっかりとしていて、当然のように皇太子になられる君だと、世間も大切に存じ上げているのだが、この御子の輝くばかりの美しさとは比べようもなかったので、一通りの形ばかりのご寵愛であって、この若宮の方を、自分の思いのままに可愛がられて、大切にあそばされていることはこの上もない。 母君は本来であれば、女房並みに帝のお側御用をなさらねばならない身分ではなかったのである。 誰からも身分を尊重され、上流貴族としての気品・風格もあったが、帝がむやみにお側近くに引き留められたために、相当な管弦のお遊びがある時、それ以外のどのような行事でも、趣きのある催しがある度ごとに、まっさきに参上させられてしまう。 場合によっては、夜遅くまで一緒に過ごして寝過ごしてしまわれた時でも、昼間もそのままお側近くに置いておかれるなど、無理やりに帝が御前から離さずにお扱いあそばされているうちに、いつしか身分の低い女房のようにも見えたのだが、この御子がお生まれになって後は、特別に大切にお考えになられるようになったので、東宮(皇太子)にももしかしたら、この御子がおなりになるのかもしれないと、第一皇子の母の女御はお疑いになっていた。 この女御は誰よりも先に御入内なされて、その家柄の良さゆえに帝が大切に扱われていることは並々のことではなく、皇女たちなども産んでいらっしゃるので、この御方の諫言だけは、さすがに無視できないことだと、面倒に煩わしくお思いになっているのであった。 更衣は恐れ多い御庇護をお頼り申しあげてはいるものの、軽蔑したり落度を探したりされる方々は多く、ご自身は病弱でその寿命がいつとも知れぬご様子で、なまじ御寵愛を得たばかりにしなくてもよい悩みを抱えておられる。 住んでいる御殿は桐壺である。 大勢のお妃方の前を帝は素通りあそばされて、ひっきりなしの素通りを繰り返されるので、お妃方が思い悩んでおられるのも、なるほどもっともなことである。 参上なさる場合にも、あまりにその更衣の参上ばかりが度重なる時(更衣だけが帝に寵愛を受けている時)には、打橋や渡殿のあちらこちらの通路に、悪意のある仕掛けを施して、送り迎えする女房の着物の裾がひっかかって傷んでしまうことがある。 またある時には、どうしても通らなければならない馬道の戸を締めて通れないようにし、こちら側とあちら側とで示し合わせて、どうにもならないようにして更衣を困らせることも多かった。 何かにつけて、数え切れないほどにつらいことばかりが増えていくので、すっかり悩み込んでいるのを、帝はますますお気の毒にお思いになられて、後凉殿に以前から控えていらっしゃった方々(意地悪をしていた方々)の部屋を他に移させて、上局(桐壺の更衣専用の休憩所)としてお与えになられた。 その恨みは(他に移された更衣たちの恨みは)、なおさら晴らしようがないほどに強くなった。 楽天AD [古文・原文] この御子三つになり給ふ年、御袴着(おはかまぎ)のこと、一の宮の奉りしに劣らず、内蔵寮・納殿(くらつかさ・おさめどの)の物を尽くして、いみじうせさせ給ふ。 それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子のおよずけもておはする御容貌(おかたち)心ばへありがたくめづらしきまで見え給ふを、え嫉み(そねみ)あへ給はず。 ものの心知り給ふ人は、かかる人も世に出でおはするものなりけりと、あさましきまで目をおどろかし給ふ。 [現代語訳] この御子が三歳におなりの年に、御袴着の儀式が行われたが、一宮がお召しになったのに劣らないほど内蔵寮・納殿の御物を派手に使って、とても盛大に執り行われた。 そのことについても、世人の非難ばかりが多かったが、この御子が成長なされていかれると、そのお顔だちやご性格が世間に類がないほどに素晴らしいので、憎むことがなかなかできない。 物事の情趣を弁えた有識者たちは、このような素晴らしい完璧な方が、この世に生まれてくることがあるものなんだなと、驚き呆れたご様子で目を見張っていらっしゃる。

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「いずれ」と「いづれ」の違い|いずれの意味と例文

いづれ の 御 時に か

緑間が出仕し出してから、もう二月ほどが経つ。 流石に少しは慣れてきたのか、初めの頃に比べ随分と落ち着いてきた様に感じる。 あの緑間が・・・と思うと感慨深いものがあり、そんな取り留めのないことを考えつつ宴の始まる中、当の彼を探して歩いていると何やらひそひそと話す声が聞こえてくる。 別に盗み聞くつもりはなかったのだが『緑の君』という緑間を示す言葉が聞こえた為、幾分か注意を向けた。 「東宮が緑の君の入内を望まれているようだ」 緑間の入内の話なぞ初耳で驚きの余りその場に踏み入りそうになったが、逸る心を落ち着かせ、したり顔で続ける奴らの声を追う。 「なんと。 それは困る。 緑の君にはうちの婿がねにと思っておったのに」 「聞いて呆れるわ。 お主のところの娘とでは釣り合わぬであろう」 「なんと!! 」 「静かになされよ。 まだご内密のことと聞く」 「しかし、緑の君が入内されるとなると寵妃は必須。 後々に娘を入れにくくなる」 「それは逆よ。 緑の君がいくら寵を受けようと所詮は男。 男に子は孕めぬ。 故に御子を生す為には女妃は無くてはならぬが、東宮にとって御子は生せばよいのであって、孕む女妃は誰でも構わぬ。 従って御召しや御渡りに女妃の間では差は生じぬ」 「ということは・・・娘さえ入内させれば御子を生す機会は等しいと!」 「ふん、どれだけ寵を受けようともただそれだけのこと。 何も得られぬまま厭いて捨てられるが落ちよ」 「憐れよのぅ」 「誠に」 「厭いて捨てられ出家なされても、緑の君なら名高き僧侶の方々が弟子にと引く手も数多かと」 「弟子だか何だかわかりませぬなぁ」 下卑た笑いが起こった瞬間、衝動のままに俺は一人の肩を掴んでいた。 「随分と楽しげな会話をなさっておられる」 全身の血が逆流したかと錯覚する程に怒りで心が滾り、肩を掴む指先が白む程に知らず力が籠められる。 緑間の名を貴様ら如き下賤な輩が口にするな。 下らぬことしか考えられぬ頭で緑間のことを賤しい想像で穢すな。 あいつをそんな風にしか見れぬ腐れた目などいっその事、刳り抜いてやろうか。 言葉にも態度にも一切の感情を載せていないのだが、本能的なところで俺の怒りを感じているのだろうか、奴らは慌てた様に媚び諂ってくる。 「こ、これは赤司殿」 「いや面白い話を耳にしましてな」 「ほう、それで右大臣家の次男殿のお話を」 「そうそう、緑の君が入内した方が赤司殿も昇進が」 虫唾が走る。 そのような言葉を皆まで言わせるつもりもなく、語気を強め遮る。 「そのような話はご冗談でもお止め下さい」 己の声が低く響く。 自分でも驚いた。 こんな声も出せるのだと。 発した言葉の余りの冷たい響きに、皆驚きを隠せないでいる。 静まり返った辺りを一瞥し、扇で口元を隠すと「では私はこれで」とだけ告げ、唾棄すべき心底くだらない輩の輪から抜け出した。 [newpage] 気分が悪い。 怒りと焦りと言いようのない怖れで心の内が荒れ狂う。 あの様な話があってたまるか、緑間が黄瀬の妃として入内するなど・・・ そう思った瞬間、吐き気が込み上げてきて右手で口元を覆う。 ふらつく身体を叱咤しながら手近にあった石段に堪らず座り込む。 目を瞑りなんとか吐き気を遣り過ごしたが、余りにも気分が悪くて立ち上がることができない。 不味いなと他人事のように思っていると「赤司?」俺を呼ぶ緑間の声が微かに聞こえた。 幻聴かとも思ったが、何度か呼ばれ段々とその声がはっきりとしてくる。 「赤司!」 ゆるりと顔を上げると心配そうな緑間の顔がそこにあった。 「大丈夫か?具合が悪いのか?」 「ああ、ちょっとね」 「ちょっとどころの顔色じゃないのだよ。 誰かに言って休めるように」 「いい。 少し休めば治まる」 「しかし」 「なら少し肩を貸してくれ」 そういうと俺は緑間に寄り掛かる。 寄り掛かることで安心したのか、ずるずると身体から力が抜けていく。 緑間は諦めたように溜息を吐くと同じく石段に腰を落ち着け、彼の肩に寄り掛かる俺の頭をそっと自らの膝へと移し替えた。 突然の反転に驚いた俺は閉じていた目を開き起き上がろうとするが、緑間の制止にそのまま身を委ねる。 「この方が休めるだろう」 そう告げながら、緑間は優しく俺の頬に触れる。 「幸い、この辺りは人があまり来ないようだ。 少し眠るといい」 彼の言葉に甘え、俺は再び目を閉じる。 触れた頬を通して伝わる緑間の体温が心地いい。 ひどく安心する。 そっと優しく撫でられる毎に己の心内の言い様のない不安が一つ一つと消えゆくのを感じながら、俺は眠りへと誘われていった。 この手を、温もりを失いたくない… [newpage] 「…かし……赤司」 緑間の呼ぶ声に緩やかに意識が覚醒していく。 目覚めると辺りは薄暗くなりつつあった。 「随分と顔色も良くなってきたか」 先ほどの心配げな表情ではなく、ほっとしたように笑みを浮かべ俺の顔色を伺う緑間を見て、どうしようもなく愛しさが込み上げてくる。 お前の全てをこの腕に閉じ込めてしまえたら… そんな思いに突き動かされ、俺は除き込む彼の頭を自らの腕の内に抱え込む。 突然、頭を抱え込まれた緑間は驚いて身を固くしたが、直ぐに「何をするのだよ」とばかりに身を捩り出す。 子供っぽいこと極まりないと我ながら呆れつつも、緑間への思いを止めることができず、それは言葉となって溢れ出す。 「お前をどこかに閉じ込めておきたい」 「馬鹿なことを言うな。 参内できないではないか」 「しなくていいよ。 ずっと俺の屋敷にいればいい」 「そんな訳にはいかないのだよ」 「傍にいて欲しいんだ」 緑間は深い溜息を吐くと少し顔をずらし、俺の目を見詰めながら言う。 「昔からあれほど言っているだろう。 お前は一人ではないと。 いつでも…お前の傍には俺がいるのだよ」 幼子に言い聞かせる様な物言いに、僅かばかりの腹立たしさを感じなくもないが、変わらぬその言葉に心の底からこいつを手離したくないと強く思い、願う。 抱き込む腕に更に力を込めてしまい・・・俺は顔を締め付けられることとなった緑間の怒りを買ってしまった。 力づくで俺を剥がした緑間は 「それだけの力が出せればもう大丈夫なのだよ」 ふんと鼻を鳴らすと立ち上がり、すたすたと先に行ってしまう。 どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。 けれど機嫌を損ねた筈の彼の白い首筋は朱に染まっている。 そういうところも昔と何ら変わらない。 愛らしい彼のままだ。 緑間のことを怒らせているというのに、何故だか嬉しい気分になり、その背を追うと並ぶ様に歩いた。 「ねぇ、緑間。 せっかくだから笛を聞かせてくれないか」 「お前は…全く何を言い出すのだよ」 「ねぇ、聞きたいんだ。 お前の笛の音が」 緑間は何度目かの溜息を吐くと、附いて来いと目で俺を促した。 珍しい。 今日はとことん俺を甘やかしてくれる様だ。 宴の賑わいから更に離れた所まで来ると、緑間は懐から大事そうに笛を取り出した。 「いつも持ち歩いているんだな」 「ああ、母上から頂いたお祖父様の大切な形見だからな」 「先々帝は笛の名手と聞くからな。 血筋か」 「それは嫌味か?俺よりも上手いくせに…それにお前もその血筋だろうが」 「昔の話だ。 今はお前の方が上手いよ……いや違うな。 昔からお前の音色には敵わない。 澄んでいて美しく、それでいて温かい。 俺の大好きなお前そのものだよ」 俺は笛を扱う彼の左手を取るとその指先にそっとに口づけた。 驚いた緑間が笛を取り落とす。 かたんと音をたて石段にぶつかり転がり落ちる笛。 いつの間にか昇った月だけが時を閉じたかのような俺たちを見ていた。 つづく.

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#1 いづれの御時にか 赤の回想

いづれ の 御 時に か

『いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ひありけり』 かの有名な恋物語の序文に出てくる更衣のように、母上は父帝の寵愛を一身に受けていた。 それはやはり恋物語の更衣と同じく、その身分や出自からすると有り余るもので、僅かに縁のあった中将の支えがなければ僕ら親子はとうの昔にこの内裏から跡形もなく消え去っていただろう。 母上は父帝の妹宮の女房として宮仕えをしていた。 儚げな美しさと学者の家に生まれた故の博識、加えて気立てもよく、主である妹宮には大層可愛がられていたという。 父帝はというと当時は即位したばかりの年若き帝で、慣れない政に追われる日々。 その気晴らしに度々訪れていた妹宮のところで母上を見初め、母上が妹宮の結婚に付き従い内裏を辞そうとしていたことろを引き留め、自らの更衣として迎え入れた。 そして僕が生まれた。 既に時の右大臣家から入内していた女御が日嗣の御子となる男児を産んでいたので、後ろ盾など持たない僕は見向きもされなかった。 母上は変わらずの寵愛を受けてはいたが、有力な後見など持たないが故に、それはそれはひっそりと暮らしていた。 そんな中、中将だけが内裏の中で忘れ去られた存在であるような僕ら親子を気にかけ、困らぬようにと手を回してくれていた。 というのも、母上が仕えていた妹宮が降嫁されたのが時の左大臣家の嫡男であった中将の許で、妹宮は内裏を去られた後も何かと母上を気遣ってくれていたのだ。 宮と中将の間には僕と歳の近い男児が二人いて、中将は殿上童として宮中に二人を上げては度々訪ねて来てくれた。 普段は寂しい限りの母上の御舎も中将と子息たちが訪れた時ばかりは、どの御殿御舎よりも賑やかで華やかだった。 中将の子息のうち、年長は青峰といい僕の一つ上で、勉学はからっきしだが決して阿呆ではなく、頭の回転は早く実は聡い。 じっとしているのは性に合わないらしく、蹴鞠や乗馬、狩りを好み、凡そ名家の子息とは思えぬ、野性味溢れたその自由奔放ぶりは常に中将の頭痛の種であった。 年少は緑間。 僕の一つ下で、兄の青峰とは異なり、学識に優れ生真面目を通り越した四角四面な堅物である。 人との関わり合いが少し苦手なようで、宮譲りと云われる美しい面差しを無愛想な仏頂面と物言いで台無しにしていまっている。 しかし、彼に近しい者は知っている。 その内はとても情深く、泣きたくなるほどに優しいということを。 そして冴え渡る月のような凛としたその姿は見るものを惹きつけて止まない。 [newpage] 彼らの訪れは前触れがなくともわかる。 内裏の中が遠くから潮が寄せるようにざわめき立って来るからだ。 その様に自然と頬が緩む僕を見て母上が嬉しそうに言葉を掛けてくる。 『中将様のご子息がいらっしゃると機嫌がよいのですね』 なんとなく恥ずかしくなり、そんなことはありませんと顔を背けるが、母上は優しく微笑みながら僕を見つめている。 『本当に宮様と中将様には感謝してもしきれません』 静かにそう言うと涙を零した。 その姿があまりに儚く見えて、慌てて傍に寄ると頷きながらその手を取った。 中将が青峰と緑間を伴い姿を現すと、静かな御舎がそれはそれは賑やかに華やかになる。 普段は内裏で肩身の狭い思いをしている母上付きの女房達が、ここぞとばかりに張り切る様子が面白く、そんな周囲を眺めながら暫くは母上と中将の会話に付き合っていたが、青峰がじっとしていられなくなってきたようで、頻りに外を気にする。 それに気付いた母上が庭に出て遊んでいらっしゃいと声を掛けた。 すると退屈そうな顔が打って変わって嬉しそうに弾みだす青峰。 対照的に呆れたように溜息を吐く緑間。 そして中将はといえば、恐ろしい気な顔で青峰を睨み付けているが、当の青峰は気にする風もなく、立ち上がり僕と緑間に行こうぜと声を掛ける。 緑間は先ず母上を伺い、母上の優しい笑みに了承の旨を確認する。 次いで中将を伺い、憮然としつつも止め立てしない中将にも渋々の了承を確認すると、僕に小首を傾げる所作でもって『どうする』と口よりも雄弁に彼の心内を語る瞳で問うてくる。 もちろん僕も早く二人と遊びたかったので、返事をするよりも早く立ち上がると緑間の手を取り、母上を振り返ると『行って参ります』と声を掛けた。 [newpage] 青峰や緑間と遊ぶのは楽しかった。 蹴鞠をしたり、庭にいる虫や蛙を捕まえたり、木に登ってみたり・・・遊びに興が過ぎ、余所の御殿御舎の庭まで迷い込んでしまうことも多々あった。 共にしたことは遊びだけではなかった。 偶には勉強もなさいませと、母上が漢詩や和歌や書を手解きしてくれた。 勉強嫌いの青峰も流石に母上には逆らえず、部屋で大人しく教えを受けていた。 その様子をちらりと横目に見た緑間が『明日は槍が降るのだよ』とぼそりと呟けば、何をとばかりに食って掛かる青峰。 騒々しい兄弟のやり取りが微笑ましいのと同時に羨ましくもあった。 三人で過ごす時間は楽しく、この楽しい日々はずっとずっと続くものだと思っていた。 けれども時は流れていく。 望む望まぬに拘わらず、時の流れとともに僕らは大人になり、世の煩わしい柵に囚われていく。 [newpage] 青峰が元服した。 官位と職を戴き殿上人として昇殿した青峰はまだ幼さを残してはいたが、すっかり名門の若い公達の顔をしており、驚いたことにそれなりの立ち居振る舞いを身に着けていた。 そして同じ頃、病で伏せることの多くなっていた母上が亡くなり、愛しい母上の後を追うように次いで父帝も崩御された。 後ろ盾を持たない僕は喪が明け次第、元服、臣籍降下することとなった。 己の意思など関係なく、慌ただしく身の振り方が決まっていく。 だからといって力を持たぬ身で何ができるはずもなく、謹んで受けることにした。 青峰やかつては中将の君と呼ばれ、今は右大臣へと登り詰めた彼らの父親あたりから僕のことを聞いて、心配してくれたのだろうか。 緑間が久しぶりに昇殿して僕を見舞ってくれた。 いつ以来だろうか。 青峰が元服してからは、殿上人となった青峰と元服前の未だ殿上童である自分との差が嫌なのか、緑間は内裏に来なくなっていた。 久しぶりに見た緑間は美しく、僕は声を発することも忘れて彼に見惚れてしまっていた。 声もない僕を言葉も出ないほどに落ち込んでいると勘違いした彼は慌てて近寄ると、独りぼっちになってしまった僕を慰めようと一所懸命に心を砕いてくれた。 『赤司は一人ではないのだよ』 そう言うと、僕の手を取り自分の胸に寄せた。 『赤司の傍には俺がいるのだよ』 そう言うと、ぎゅうと僕の体を抱きしめてくれた。 その優しさが嬉しくて、その言葉が温かくて、彼の腕の内は全てを忘れてしまえるくらい居心地がよくて・・・ 優しい優しい彼に、ただひたすら甘やかされるままに抱きしめられていた。 [newpage] あぁ、優しい緑間。 口さがない女房達が噂する。 『右大臣家の御兄弟の見目の麗しさと言ったら・・・』 『あら、うちの赤司様も負けてはおりませんのよ』 『ええ、けれどわけても緑間様がお美しいですわ。 さすが美女と名高い先々帝女三の宮様の血を濃く受け継いでらっしゃる』 『右大臣家は安泰ですわね。 お相手は選り取り見取りでしょうから』 『お相手になりそうな姫君のいらっしゃる方々はそれはもう今から気色ばんでいらっしゃるとか』 『まぁ、緑の君はまだ元服前ですのに』 『右大将の一の姫君は大層美しいとか・・・緑の君とお似合いでは』 『いいえ、家格でいうなら左大臣家の末の姫君の方が』 『いえいえ兵部卿宮様の姫君の方がお血筋的に・・・』 うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。 緑間は僕のものだ。 彼は言ってくれた。 『赤司の傍には俺がいるのだよ』 昔からずっと、人に誤解されやすい緑間の、誰にも明かさぬ本当の彼を知っいてるのは僕だけ。 誰にも誰にも渡さない。 [newpage] 喪が明けて元服、臣籍降下した僕は居心地の悪いなりにも長年住み慣れた内裏を出て、外に用意された屋敷へと移り住んだ。 官位と職を戴き、臣下として昇殿した僕は父上のあと新しく帝となられた叔父上にあたる今上帝の覚えもよく、青峰とともに今を時めく若い公達として、宮中を華やかに彩っていた。 僕としてはここに緑間がいないのが物足りなく寂しいが、直に元服出仕し、そうしたらまた三人で楽しく過ごせると思うと、その時が待ち遠しくて仕方なかった。 同世代の中では青峰とともに出世頭で宮中の人気を二分する。 青峰より一つ年下で、緑間より一つ年上。 緑間のことを幼い頃から誰よりも何よりも好き。 青峰のことは良きライバル、よき友と思っている 緑間【モデル:?】 父は右大臣(かつての中将)母は先帝の妹宮(先々帝の女三の宮) 摂関家の流れ組む名門中の名門、右大臣家の次男。 青峰の二つ下の同腹の弟で、口ではなんだかんだ言いつつも兄を慕っている。 赤司の幼馴染であり、幼い頃から秘かに赤司に思いを寄せている。 青峰【モデル:頭中将】 父は右大臣(かつての中将)母は先帝の妹宮(先々帝の女三の宮) 摂関家の流れ組む名門中の名門、右大臣家の嫡男。 緑間の同腹の兄で、態度には出さないが幼い頃から緑間のことが大事で何があっても守ると決めている。 赤司とは幼馴染であり、良きライバル、良き友だと思っているが、緑間を悲しませるのなら容赦しないとも思っている。 東宮(黄瀬)【モデル:朱雀帝】 父は先帝(故人)、母は先帝の女御(現 左大臣家、前の右大臣家の五の姫) 有力な後ろ盾を持つ為、生まれた時から帝になることを約束された先帝の第二皇子。 *注意:時代的には平安朝ですが、私の脳内都合により男性が入内(後宮入り)できる特殊な制度が制定されています *注意:続きものの話を書くのは初めてなので辻褄があわなくなった場合、さげることもあるかも・・・.

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