まやかし 戦争。 英仏召喚

歴史が示すまやかしだらけの「戦争の始め方」 戦争の現実を考えさせる「人生が戦争とともにあった」マクナマラ元国防長官の言葉(1/8)

まやかし 戦争

第二次大戦下、イギリス本土で暮らしていた一般市民たるイギリス人は、どのような人生経験をしたのだろうか。 第二次大戦下のイギリスにおけるいわゆる「国内戦線 Home Front 」については、多くの英語文献が蓄積されてきている。 とくに、空襲体験、疎開体験、軍需工場での労働体験などが社会や人びとにもたらしたさまざまな影響については、研究も多い。 しかし、余暇の経験ということになると、一般向けに書かれた本や、ラジオや映画といった個別のメディアや事象に対象を絞った学術研究は少なからず出されているのに、意外なことに全体を俯瞰した学術研究はいまだにまとめられたものがないのである。 日本においても、ドイツを対象にしたものは多いものの、イギリスの戦時経験を対象にした歴史研究は実に少ないように思われる。 ここでは、人びとの余暇経験という側面に焦点を当てながら、これまでの先行研究および各種一次史料の紹介という形をとって、イギリス人の第二次大戦経験をスナップショット的に見ていくことにしたい。 Crang, eds. , Listening to Britain: Home Intelligence Reports on Britain's Finest Hour ー May to September 1940 London: Vintage, 2011 pbk edition. 1940年の春は、イギリス国民が第二次世界大戦の脅威を身にしみるかたちで認識し始めた時期である。 対独戦争は、1939年の9月に始まってはいた。 映画館などの娯楽施設は直ちに閉鎖され、都会の子どもたちの集団疎開も実施された。 しかし、1940年の春になるまで、本国内で生活する国民が戦争を身近に感じる機会は多くはなかった。 映画館の閉鎖にはただちに抗議の声が上がり、もまもなく再開されることになった。 疎開した子どもたちも、多くが自宅に戻ってきてしまう。 この時期が「まやかしの戦争」と呼ばれるのはそのためである。 戦争はヨーロッパ大陸の出来事にすぎなかった。 イギリス国民が危機感を広く共有し始めたのは、ドイツが4月9日にノルウェーとデンマークを侵攻・占領し、続いて5月にはフランスへの侵攻を開始してからである。 チェンバレン首相は辞任してチャーチル率いる挙国一致内閣が成立(5月10日)したが、6月にはイタリアが対英宣戦布告したうえ、続いてフランスがドイツに降伏した。 この間、5月21日の夕刻6時のニュースでは「ひとつの奇跡のみがフランスを救う」とアナウンスされ、イギリス国民のあいだには動揺が広まった。 26日にはフランスのダンケルクから、フランスに送られていた英国海外派遣軍(British Expeditionary Force)を中心にした連合軍の救出作戦が開始され、6月4日までにイギリス兵22万2,658人を含む33万8,226人が英仏海峡を渡ってイギリスに逃れたのである。 その後、7月にはイギリス王室保護領のチャンネル諸島がドイツに占領され、イギリス本土へのドイツ空軍の空襲が始まった。 「ブリテンの戦い」である。 本書は、こうしたドイツによる本土侵攻の危機が最も迫った時期のイギリス国民の士気について、イギリス情報省の国内諜報部が情報を収集してまとめ、日曜日を除く毎日作成していた報告書を活字化した史料集である。 イギリス情報省は対独戦争の始まった1939年9月に設立され、同年12月にメアリー・アダムズをトップに国内諜報部は設立された。 驚くべきことだが、国内諜報部の組織およびその後の活動は、彼女一人が作り上げたものだと言っていいと編者は序文で記している。 アダムズは戦前BBCテレビのプロデューサーだったが、テレビ放送は開戦前にすでに閉鎖されていた。 夫は保守党下院議員で強固な反宥和政策論者だったヴィヴィアン・アダムズだったが、彼女自身は社会主義者であり、ロマンティックな共産主義者でもあり、無神論者で、人道主義者だったというところもおもしろい。 そんな彼女が調査を委嘱した先は、マス・オブザヴェイション Mass Observation だった。 マス・オブザヴェイションは、1937年に人類学者のトム・ハリソン(Tom Harrison 、詩人で社会学者となるチャールズ・マッジ Charles Madge 、詩人でドキュメンタリー映像作家のハンフリー・ジェニングス Humphrey Jennings によって設立された組織で、イギリス民衆の思考、信念、態度、慣習、趣向などをユニークな調査方法で記録する活動を展開していた。 第二次大戦後には、マーケティング会社となる組織であるが、戦前・戦中の調査活動は実にユニークで、そこで集められた記録は、イギリス20世紀史を研究する歴史家たちに不可欠な貴重な同時代史料となっている。 それらの史料はいま、イングランド南部にあるサセックス大学の「マス・オブザヴェイション文書館」に所蔵されている。 本書に収められた史料は、国立文書館の所蔵史料を基本にしているが、マス・オブザヴェイション文書館にあるメアリー・アダムズ文書によって補足されている。 前置きが長くなったが、イギリスの戦時下の情報省についてきちんと紹介された日本語文献はないと思うので、いたしかたない。 この史料集を読むと、イギリス各地の人びとが、戦時下にどのような不平不満や怒り、不安と心配を持ち、そこからどんな噂話が生まれてくるのかがかなりの程度わかる。 イギリス政府は、敗北も含めて国民におおむね正しい戦況を伝えていたが、ダンケルク撤退時など詳しい説明が欠如しがちだった際にはさまざまな噂話が生み出されている。 人びとは、配給となった食糧にも飢えていたが、情報にも飢え、不満を持ちがちだった。 「不平を言うのはイギリス人の伝統」と言ってはばからない国民もいた。 だが、さまざまな自由の権利が誰にでも適用されるべきだと考えられていたわけでもない。 イタリアとの開戦後になると、ドイツから逃れてきたユダヤ人難民ばかりでなく、イギリスに移住してきて数世代になるイタリア系住民に対する敵対心も高まった。 イタリア系住民が経営していた多くのお菓子屋さんやアイスクリーム・ショップが暴徒に破壊された。 イギリスポップ・アートの父といわれ、戦後のイギリスを代表する彫刻家であるエデュアルド・パオロッツィ(Edualdo Paolozzi)もそうした戦時体験を持っている一人である。 良心的徴兵忌避者もまた、嫌悪・憎悪の対象となった。 労働者階級の間に、いわゆる「適性外国人」に対する反感はより強かったようだ。 余暇の問題も、士気の問題とおおいに関連してとらえられていたことがわかる。 たとえば、楽しみを目的とした自動車での遠出を非難する声を国内諜報部はとらえている。 ガソリンの無駄使いであり、非愛国的な行為だとみる国民は少なくなかった。 BBCが自転車競技のスポーツの結果を報じた時には、無駄な放送をしているとの批判があがった。 一方で、余暇の必要も隠せぬ事実だった。 政府が春の祝日である聖霊降臨日を平日として過ごしてほしいと訴えたにもかかわらず、多くの国民はこれを無視したし、政府やBBCに人びとが求めたのは、愛国的なお説教ではなく、率直な事実の報道とたっぷりの娯楽番組だった。 週単位で省が区切られ、それぞれに編者による戦局を中心にした背景説明が付されている。 索引も充実している。 こういう史料集がパーパーバックで出されているところがいい。 Voices from the Home Front Stroud: Sutton Publishing, 2006 pbk edition. この本は、35人の第二次大戦経験者にたいして行なったインタビューの記録をまとめた史料集といえるものである。 著者は都合100人ほどにインタビューしているが、35人以外はごく断片的にしか取り上げられていない。 著者がとくに記録しようとしたのは、子どもおよび大人の学校生活、女性の労働生活、そして戦争反対者の経験の三つであることが、この本の特徴だ。 とくに、戦争に反対した平和主義者たちの記録が収められていることが貴重である。 本書に収録された多くの回想では、余暇の経験についてもふれられている。 ラジオ聴取や映画鑑賞、ダンスにふれたものが多いが、芝居やコンサート、飲酒やホリデーの思い出を語っているものもある。 地域、階級、ジェンダー、年齢、家族構成などによって、余暇経験は多様であることがわかるが、ラジオ(BBC)の存在の大きさは共通している。

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ドイツのポーランド侵攻とまやかし戦争

まやかし 戦争

スポンサーリンク ナチス・ドイツと ソ連は,1939年8月23日 独ソ不可侵条約を結びました。 反共のナチス・ドイツと1935年の コミンテルン第7回大会で反ファシズムの 人民戦線の結成を訴えたソ連の同盟に世界は驚きました。 これで東側の安全を確保したドイツは,1939年9月1日に ポーランドに侵入します。 すると9月3日に イギリス・フランスはドイツに宣戦布告し, 第二次世界大戦が始まりました。 ソ連は独ソ不可侵条約の秘密協定にしたがって,9月17日に東からポーランドに侵入し,ポーランドはドイツ・ソ連両国によって分割・占領されました。 イギリス・フランス軍はドイツ・フランス国境ならびにフランス・ベルギー国境に陸軍の大軍を展開し,ドイツは主力の陸軍をポーランドに進軍させていたため,イギリス・フランスは圧倒的に有利な状況にありました。 しかし,本格的な戦闘は行われず,これはイギリスでは「まやかし戦争」,フランスでは「奇妙な戦争」と呼ばれました。 その原因としては,イギリス・フランスの戦前の 宥和政策がまだ尾を引いていたことや,とくにフランスがドイツの戦力を過剰に恐れていたことなどが挙げられています。 前線では緊張感がだんだん失われて,両陣営の兵士がタバコやお菓子を交換したり,日光浴をしていました。 ちなみに, 第一次世界大戦緒戦の 西部戦線でも,1914年12月24日から25日にかけてクリスマスを祝って両軍兵士が自主的に停戦を行い,記念写真を撮ったりプレゼントを交換し,サッカーに興じたといいます。 第一次世界大戦に従軍していた ヒトラーは,こんなことはするべきではないと仲間を叱りつけたそうです。 1940年5月10日にドイツがフランス・ベネルクス3国に侵攻を開始し,このような状況は終わりました。 フランスは,第一次世界大戦後,ドイツ・フランス国境にマジノ線と呼ばれる長大な要塞線を建設していました。 そして,イギリス・フランス軍は第一次世界大戦の経験からドイツ軍はベルギー国境から進撃してくると予想して,ベルギー・フランスの国境に主力を展開していました。 しかし,ドイツ軍の戦車部隊は,通行不可能とされていたアルデンヌの森を脱けてイギリス・フランス軍の背後に回り,イギリス・フランス軍はダンケルクに追い込まれたのです。 そこで,この映画に描かれるようなイギリス本土への撤退作戦であるダイナモ作戦が行われたのです。 イギリスに生還した主人公が,歓迎する人々の一人に「逃げてきただけだ」といいます。 しかし,その人は「それだけでいいんだ」と答えました。 戦争のむなしさ,無意味さで映画を終わることもできました。 しかし,監督は列車の中でチャーチルの「われわれはこれからも戦い,決して降伏しない」との演説の記事を最後に読ませて中和しています。 ノーラン監督はこの「ダンケルク」を戦争映画ではないと繰り返し述べています。 しかし,やはり戦争映画です。 淀川長治は,先の旧作「ダンケルク」のパンフレット解説に,この映画を「人間」を描いていると評価した上で,戦争映画一般について 「私は常々…なにを好んで今さら勇壮なる戦士英雄を描く必要があろうと思う」 「その面白さに幾億万の金をかけて超大作を作りそれからの儲けによって大会社の資本を増すことも営業といえば営業であろうが私はその企画にいつも心をくもらせてきた一人である」と書いています。 戦争を経験した世代である淀川の率直な意見です。 時代遅れだという人もいるでしょう。 でも,私も同様の感想を持ちます。 スポンサーリンク.

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奇妙な戦争

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ドイツのポーランド侵攻とまやかし戦争 各国の思惑と見捨てられたポーランド 第二次世界大戦の始まりは1939年9月1日とされている。 ドイツがポーランドに侵攻を開始した日である。 ドイツからポーランドへの宣戦布告はなかった。 ポーランド侵攻と宣戦布告 ドイツのポーランド侵攻は予想されていたことで、あらかじめイギリスはポーランドと同盟を結び、有事の際には支援することを宣言していた。 特にドイツがミュンヘン協定を破ってからは、イギリスとフランスは強硬な姿勢をとるようになった。 ポーランドに侵攻すればイギリス・フランスと戦争になる可能性は高かったわけだが、ヒトラーは強行した。 イギリス・フランス両政府はドイツの行動にどう対処するか協議し、9月3日にイギリスがドイツに宣戦布告、フランスもこれに続いた。 両国はドイツに対して経済封鎖を行い、ヒトラーを非難するビラをまいた。 特にフランスはドイツと国境を接していたが、直接攻撃することはなかった。 宣戦布告したのに戦闘が起こらないという不思議な状況は、イギリスでは「いかさま戦争」、フランスでは「奇妙な戦争」と呼ばれた。 当時のイギリス・フランス両軍とドイツ軍の軍事力に大きな差はなかった。 海軍力ではイギリスが圧倒していた。 それでも両国は積極的に攻撃することはなく、孤立無援だったポーランド軍は一か月で壊滅した。 フランスのマジノ線 フランスは第一次世界大戦の経験から、ドイツとの戦争は国境付近での塹壕戦になると見ていた。 そこで国境に沿ってマジノ線と呼ばれる強固な要塞を構築していた。 ドイツとの国境はマジノ線で防ぎ、ベルギー側には戦車部隊を配置することでドイツ軍の攻撃を防ぐという作戦だった。 ベルギーとルクセンブルクの国境、アルデンヌには森林が広がっていた。 この地域を大軍が通過することは難しいと考えていたため、フランス軍はあまり兵力を配置していなかった。 だが、後にドイツ軍が突破したのはアルデンヌの森だった。 おかげでベルギー側にいたイギリス・フランスの戦車部隊は孤立、ダンケルクに追い詰められることになる。 ソ連とイタリアの動き ドイツの同盟国であるイタリアは、この時点で参戦する気はなかった。 ムッソリーニ首相は軍備不足を理由に、事前に参戦を断っていた。 一方のソ連は、ドイツと不可侵条約を締結していたが、ドイツの動きを黙って見ているわけではなかった。 ドイツがポーランドに侵入するとソ連もポーランドに攻め込み、東部を占領した。 また、バルト三国を併合し、フィンランドにも圧力を加えた。 フィンランドはソ連の圧力に屈せず、戦争になった。 イギリスとフランスはソ連を国際連盟から追放し、フィンランドをノルウェー経由で支援した。 ノルウェー軍は頑強に抵抗し、ソ連軍はなかなか進軍することができなかった。 この様子を見て、ヒトラーはソ連が弱いと判断し、北欧を次の攻略目標に定めたとされる。

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